□■ 捧げられしは白きリリウム―2― ■□ |
刻限を示すひと針が振れる。 「……いと高きところにおいでになるお方へ感謝いたします」 囁きは深き夜のひと息ごとに紡がれる。 「いと高きところにてわれらを見守りたもうことを感謝いたします」 かじかんだ指に息が触れ、仄かに温められて針先が精緻な紋様を作り上げる。 「いと高きところへと、この魂を導きたまうことを感謝いたします……」 ひと針ごとに込められる思いは感謝と敬愛であるようにと、ユリヒに刺繍を託した老婆はいつも口にしていた。王の儀礼用の衣服を取り仕切っていた老婆は、ユリヒ同様司祭の一族ではなかったが、その生涯をかけて王のために神殿に勤めていた。高慢なばかりの司祭の一族が多い神殿のなかで、ユリヒがここに暮らすようになったことを、唯一喜んでくれたひとだったと言える。例えそれが、自分の技を継ぐ小間使いが出来たがためであったとしても。 ユリヒは強張った身体をほぐすように、ふうと大きく息を吐いて針を止め、丁寧に王の衣装を作業台の上にたたんだ。 綿羊の地に銀の絹糸で描くのは、七支を六の頂点を持つ形に組み合わせた、雪の結晶のごとき王の印である。銀糸で縫ったあと、少し位置をずらして同じ紋様を青色で重ね、影をつけていく作業が残っていた。 あともうひと針、と思いつづけて朝を迎えてしまうことはよくあることだ。陽光の白い眩しさに気づいて慌てて羊たちのもとに向かうと、どうしてか夜通しの作業がヨハネにはわかってしまい、無言のままひどく怒られることになるのが常だった。 ごめんなさい、とそのたびごとに謝る気持ちに嘘はない。無理をしないようにと諭されると、心配をかけてしまったことが心苦しくてならないのに、刺繍針を手にすると、どうしてもあともう少し、と思ってしまうのだ。 「私にできることはこれしかないもの、がんばらないと」 ユリヒは自分に言い聞かせるようにそう言うと、再び作業台に向かい細い針を手に取った。ぼんやりとした視界のなかで、あと少し、と思いつめて背を屈める。 聞くものがあれば、その声の追い詰められたような痛ましさに眉をひそめただろう。しなやかな指に残る針指した痕は、せっかくのうつくしさを幾分か損なわせていた。だがここにそれを指摘するものはいない。いないままに、ユリヒは慣れた手つきで糸を手繰り寄せた。 王の衣装に刺繍を施すことは、ユリヒがここにいる意味であり証である。神殿にいることがただの不幸であったり、だれかの重荷であったりしないためには、ユリヒは与えられた仕事をきちんとこなさねばならなかった。だれのせいでもなく、ただあるべきところに居るだけだという事実が、親に見捨てられるようにして神殿に捧げられたユリヒにとって必要なものだったのである。 しかし今日は、先日までの具合の悪さが治りきっていないのか、刺繍へと集中することがどうしてかできない。 「あと三日しかないのに……」 焦りと悔しさはじりじりとユリヒの胸を苛んだが、このまま作業を続けても満足するような出来ばえにならないということもわかっていた。 感謝と敬愛をひと針ごとに込める。 簡単なようでいて難しいそれに、ユリヒはそつと唇を噛んだ。 刺繍糸の残りを確かめて指先を走らせると、これから使う青色に染めたものが少しばかり足りないことに気づく。蚕部屋で蚕を育てたり羊毛を紡いだりすることはユリヒにもできたが、染色だけはほかの司祭たちの手を借りねばならない。作り置いてあるものを倉庫からとってくるにしても、鍵の掛けられたそこに入るにはヨハネの許しが必要だった。 「今夜はここまでにするしかないのね」 致し方なくではあったが諦めて指貫を外し、掌にいつものごとく道行の毬を掴むと、なによりも手に馴染むそれに、こころのうちが大きく安堵するのがわかった。耳元に近づけ、ちりりとした儚い鈴の音を聞くと、こわばっていた身体がゆるやかに解けていくような気がする。 「ヨハネ……」 夜には会うことのできない彼の名前を唇の動きだけで呼ぶ。 ユリヒが自由に神殿のなかを歩けるようにと、毬を与えてくれたヨハネはユリヒのためにこの神殿にいるわけではない。道に迷えば迎えにきてくれ、夜通しの作業に渋い顔をしても、ヨハネが仕えるのは神である都の王そのひとなのである。 六年に一度来る贖罪の期間、七日のあいだ王は司祭長の控え室の奥の自室に籠もり、断食をして潔斎をする。もっとも普段から王は奥の部屋から出てくることはなく、控え室に入れるものとてごく限られていた。ヨハネはその限られたもののひとり、司祭長そのひとである。 王の言葉はヨハネが聞き取り、ヨハネはそれを紙に記して宰相に届ける。神聖なる王の言葉は決して余人に聞かせるものではなく、その姿もまた影さえもひとめに触れさせてはならない。だれかが不敬にも神殿に忍び込み神の暮らしを悩ませたりしないよう、司祭長は王の部屋の前で、毎夜寝ずの番をするのだ。 そう、夜に作業を行うのはなにもユリヒに限ったことではない。 ヨハネこそが、常に夜を仕事のときとする。 だからこそ、ヨハネが気を張り詰めている夜だからこそ、ユリヒもまた、自分だけが休むわけにはいかないという気持ちになるのだ。 「飲み物をなにか差し入れてこようかしら」 刺繍の進み具合からして、今宵はまだそれほど遅くもないだろう。ならばなにか心を温める飲み物を持ってヨハネのもとへ行っても、そう怒られることはないはずだ。 言葉にしてみれば、その思いつきはますます良いものであるような気がする。 「お茶を一杯飲むくらいの時間なら、ヨハネのそばにいってもじゃまにならないわよね」 自分に言い聞かせると、ユリヒは椅子から立ち上がって部屋の扉に向かった。 掌に毬はあれど、神殿内であればもはやそれを使わずとも容易に歩くことができる。 回廊には等間隔に並んだ柱があり、三本目の楓の葉のような傷のあるものを左に回ると、そこには小さな台所があった。神殿内すべての人間のための食事は、もう一回り大きな南側の食堂で作られている。そちらのかまどは大きく火の勢いもあざやかだが、ふたり分のお茶を煎れるていどのことは、こちらの小さいほうを使うことが多かった。 火を熾すのはいつになっても緊張する。 あんたはひとより少し不器用なんだから気をつけなきゃだめさ、とくどいほどに師である老婆からは言われていた。目が見えないんだから、と言わないところが、口は悪くても温かかった老婆らしい。それでいて、なんでもひとりでできるようにと、いろいろなことを教えてくれた。 鍋にカモミールの葉と水を入れて燐寸を摩擦する。 薄水色の寝巻きのうえに自分で編んだ上掛けをはおった姿のまま、ユリヒは両腕で己の身体を抱きしめた。 待つ時間、というものがユリヒはあまり好きではない。手を動かしていないと、どうしてもいろいろと思い悩むことがあるからだ。 このまま、ひとりで部屋に帰って寝てしまうべきではないのか。あるいは刺繍を続けたほうがいいのではないか。だがもう部屋には糸がない。糸を補充するにはヨハネの持つ鍵が必要だ。しかしこんな夜更けに鍵が欲しいといえば怒られるのはわかっている。けれどお茶を届けて、そのついでに鍵を借りてくることはできるかもしれない。 「おつかれさま、お茶を煎れてみたの……、お茶が飲みたくなってしまったから煎れてみたのだけど一緒にどうかしら……、いつもたいへんね、少し休憩をしたほうがいいわ……」 かける言葉を練習して口のなかで呟くが、実際にヨハネの前にでれば、そのうちの十分の一も満足に話せないのが予想できる。それでも、糸が足りないことなど口実で、本当は自分がただヨハネと一緒に過ごしたいだけなのだ。たとえそこに言葉がなくても。 ほどよく煮立ったお茶をカップに注ぐと、匂いがゆらりと漂った。 ヨハネの部屋は、王の寝室の前である。 右手にお盆を抱え、サンダルのつま先でタイルをなぞりながら、歩数にして三十五を数える。神殿に伝わる祈りの言葉ならば八つほど。 都の紋章が描かれた扉の前でしばしユリヒは躊躇する。 「怒らないで、怒らないで、怒らないで……」 大きく息を吸うと思い切ってその扉を叩いた。 「ヨハネ」 扉の向こうが無言なのはいつものことだ。 「ヨハネ、ユリヒよ」 開けてちょうだい、とは言えなかった。ヨハネの拒絶がどれほど胸に痛みを呼び起こそうと、それはヨハネの権利である。 その遠慮のうちにゆっくりと扉が開いた。 最初に感じたのは、カモミールのお茶の香りを覆い隠すほどに濃厚な百合の匂い。 そしてヨハネの狼狽と怒りだった。 「どうして来たんだ、って……」 薄く開いた扉の隙間から、するりとその痩身を抜け出させてきたヨハネが、ユリヒの左手を取って乱暴に文字を綴る。 「疲れているんじゃないかと思って、お茶を用意してみたんだけど。それにあの、糸が、刺繍糸が足りなくて、鍵を貸してもらえたらって。もちろん、自分で探すわ。ヨハネに迷惑はかけないつもり……」 たどたどしくも懸命に言い募れば、仕方がないと許してくれる手が、今日に限っては不機嫌なままだった。 「この部屋に来るなって、どうして」 カモミールが冷めていくよりも早く、ユリヒのこころがひやりと冷たくなっていく。 「私が会いに来るだけでも迷惑なの?」 震える唇で問いかけながら、ユリヒはすぐさま聞かなければよかった、と後悔した。 違う、ともそうだ、とも言わないヨハネの指先が、ユリヒの薬指を慈しむように優しく撫でる。同じくらいの年頃の娘なら、そこに婚約の印があってもおかしくない。自分には無縁なものだと、期待をこころの奥底にうずめてしまったユリヒでも、その指の淋しさは時折どうすることもできなかった。 ヨハネの指先の意図がわからず、しばらくはその乾いた手触りのみを感じていたが、ふとそれが刺繍針を刺した痕を労わる所作だと気づく。たとえユリヒの突然の行動に怒りを覚えているときであっても、ヨハネのそうした細かな気配りはあるがままに与えられるのだ。 なんという愚かしさだろう。それなのに自分は無言で触れ合う指先の感触に、まるで恋人同士が贈りあう指輪を考えているみたい、と恥ずかしげもなく夢想していた。 思い至ればユリヒの頬が赤く染まる。 弱さを悟られることに怯えたユリヒが、慌てて自分の手を薄い寝巻きの胸に抱きこんだ。 いまさら俯いても、恥ずかしさは消えてなくなるものではない。 「ごめんなさい……」 かろうじて声になったのは、もう何度目になるか知れない謝罪だった。 はじめてその言葉をヨハネに言ったのは、完全に世界の識別を失った十歳のときである。 神殿に捧げられたばかりのころを思い出せば、あまりのかわいげのなさに自分でも嫌気がさす。庇護してくれた老婆にはすぐに懐いたが、それ以外の神殿の司祭たちとは目を合わせるのも話しをするのも嫌だったのだ。ましてや、恵まれた階級である司祭の一族の、同じ年頃の男の子となんて、仲良くできるわけもなかった。 「そばにこないで」 老婆がそばにいないときは、ひとりで部屋の隅にうずくまってばかりいた。ヨハネの視線に哀れみを感じると、金切り声をあげてあたりのものを投げつけた。司祭の長として生まれ、成人すれば惣領となることが決まっていたヨハネが、羨ましくて憎らしくて仕方なかったのだ。 「ついてこないで」 時折どうしても我慢できずに外にでると、きまってヨハネがあとをついてきた。それさえもまるで監視されているような、あるいはひとりで歩くこともできない役立たずと思われているような気がして拒絶した。そこにいても、いないものとして声もかけず、振り返りもしなかった。 「あなたなんて嫌い」 声をかけるときはいつも、始終無言で困ったように微笑んでいるヨハネに、当時はどんな事情があるのか慮りもせず、ただ自分の苛立ちのままに責め立てた。 「嫌い」 きれいな薔薇の花も、かわいらしい小鳥であっても、なにを差し出されてもそう言った。 そう言えば初めてヨハネの困ったような顔が、悲しそうな顔に変わるのだ。 差し出される手を拒み続けて、自分を守るために相手を傷つけて、そして自分の殻に閉じこもって生きていた。 それでも、ヨハネの悲しげな顔に、ひどく胸が騒いだことを覚えている。 それを見ないようにするために、神殿の裏手にある森へと駆け込んだのだ。暗い奥へ、道のない奥へ、穢れて疲れきっていたこころの奥へ。 一昼夜、ひとりでその森のなかにいた。正確には、ひとりでいたのはほんの半日。心細くなっていたところで、ヨハネが探しにきてくれたのだ。 「なにか話して」 自分でもあまりにも身勝手だと思ったが、夜も深くなれば、なによりもあたりの闇が怖かった。いつもの口調はかえず、けれど震える声でそう言えば、ヨハネが近くにあった木切れを拾い、月明かりの地面に流れるような文字を書いた。 『ぼくは話せない、ごめん』 「どうして」 神殿にきて四年ものあいだ、それさえも知らずただヨハネを遠ざけてきたのかと思うと、ユリヒは自分でもあまりの非情さに後ろめたくなった。しかしユリヒのそうしたさまを責めることなく、理由を話すこともなく、ヨハネはやはりただ困ったように笑って見せた。 月が雲に隠れて闇があたりと覆いつくす。 「なにも話さなくていいわ」 ユリヒは座り込んだままヨハネの肩に自分の肩をつけてそつと呟いた。 「でも、私のそばにいて私の手を捕まえていて。そうしたらなにも話さなくてもいいわ」 答えは声にしては返らず、ただ繋がれる手のぬくもりとなって今に伝わる。 あのあと、夜の森で過ごしたせいかユリヒは高熱を発し失明に至った。百合の花を持って訪ねてきてくれたヨハネに、ありがとうとごめんなさいを言えるようにはなっていたが。 後悔があるとすれば、手をつないだあのときに、嫌いじゃないというべきだった。 歳を重ねるごとにその言葉は紡ぎにくく、ましてや好きだなどと口にできるわけもなかった。 サロメと知り合い親しくなるにつれて、自分の思いが恋に他ならないと気づいたときから、どうしてもうまくヨハネと話せなくなっていた。 繋いだ手を、放さないで欲しいと願ったのは自分なのに、その指先から思いが溢れ出るような気がして、もうひとりでも平気だと言ったとき、本当はひどく苦しかった。 サロメが、あまりにも素直にヨハネのところに駆け寄っていくのが、見えない自分でよかったと思う。見えていれば、今以上の嫉妬を感じることになるだろうから。 ヨハネを縛り、この地にとどめる神に対しても、ともすれば嫉妬が湧き上がる。 ユリヒには聞こえぬ彼をよばう声が、絆が、ヨハネと王のあいだにはあるのだ。 『ここには来るな』 手のひらに綴られた拒絶の文字。 胸の痛みに瞳を伏せた。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。 |