□■ 蓮の香 ■□ |
常盤木の緑の陰影は深く闇に沈み込む。 物の怪か妖の類のみが浮かび上がる丑三つか、鮮やかな内裏の朱塗りの柱こそ焔と燃えて更け暮れる、真夜中どきのことである。 常ならば息さえひそめる静寂に、今宵はなぜかどろりと淀む大気のなかに、低く鋭利な刃のごとく、待てと厳しく命じた声が、牛車の中に身を隠すふたりの身体をこわばらせた。 「男はひとりも御所からだすなという命令だ。なかをあらためさせていただく、御免」 言葉ほどに控えた様子はなく、無遠慮な侍の槍持つ手が、むんずと掴んだ御簾の端を荒々しくも捲り上げた。 白檀と安息香の混ざった、芳しくも仄かな蓮の花の薫香があたりにもれる。 その香りの主が牛車の奥の人物をかばうようにこころもち上体を傾げ、揚羽を描いた蝙蝠ごしに涼やかな声を響かせた。 「たしかに男の装束をまとっておりますが、こうした詮議を受けようとは思いもよらぬことでしたわ」 篝火に照らし出されたその姿に、侍が驚いて目を見開く。 「こ、これは仁王どのではござらんか。どうしてこちらに」 闇夜に浮かぶ白い直垂に朱の長袴をまとった姿は凛々しくも妖しく、仁王なる猛々しくも勇壮な名前を名乗りながら、その顔かたちのなまめかしさは見るもののころろを蕩かすほどに艶やかだ。門を預かる侍の眦を下げさせることなどたやすいもので、仁王はときの権力者たちの覚えもめでたき白拍子である。 「如何に、とはまた可笑しきことをおおせられます。私たち白拍子のありようはご存知のはず……院の無聊をお慰めしてきたところでございます」 にこりと笑んだその瞬きのひとつ、ふたつにも、こぼれ落ちるのは芍薬のごとき優美さだ。 見とれていた自分を恥じるように侍は空咳をし、わざとらしく顔をしかめた。 「そのような報告はうけておりませぬぞ」 「なにを無粋なことをおっしゃられます。せっかくの逢瀬を吹聴するものがおりましょうや」 小首を傾げるしぐさは清らかなままに、仁王は軽やかに閨房の秘を語った。表向きは男装の舞人として語られる白拍子が、その水干を脱いでもまた夜鳴鶯がごとく唄うことは、広く囁かれる話である。 「ひとの口に戸は立てられぬもの。噂となるのは致し方ございませんが、そう方々で触れ回るものでもありませんでしょう」 伸ばされた白い手が御簾を掴む侍の腕に触れ、ごく自然にふたたび車箱は閉じられた。 「お役目大事とは存じますが、こうも厳しく辱めを受けることは悔しゅうございます。あなたさまのもとへ忍び、この装束を解けば、私が女性であることなどすぐにおわかりになりますでしょうに」 熱を帯びた仁王の声に、侍は戸惑いと期待に顔を紅潮させる。それでもふたたび動き出そうとした牛車に、今ひとたび制止をかけた。 「ま、待たれよ。そちらの女房どのは……」 「こちらはもと院御所のもので、私の世話をしてくれる浮舟と申しますが。私だけでは足りず、こちらの女房までもお求めになりますか」 牛車のなかで女房が身をすくませたのを見て、仁王は安心させるように微笑みを投げかけた。そして外の侍に向かって、幾分か揶揄をこめた声音で囁く。 「ずいぶんと頼もしく好色でいらっしゃるのですね」 「そうではない。そうではあるがそうではないぞ。もうよい、行け」 部下の手前もあるのか、慌てた調子で侍が牛車を追い払う。 「ではまたお会いできますように」 ゆっくりと門を去る牛車は白拍子と女房を乗せて御所をあとにした。 そこにはただ、淡い蓮の花の香りだけがしばし留まる。 掴めぬ影を残すように。 小路を行く牛車の揺れに身を任せながら、うつむいていた女房がそつとその顔を上げた。 「余は……あまりにも無力だ」 「お上……?」 悔しさを滲ませた声は年若い女房のものではなく、青年らしい素直なのびやかさが窺える。 たしかに、硬い骨格を包み込むいくえにも重ねられた女房装束のうちには、精悍な体躯がその気品ごと隠されており、垂らした髪を結い上げて、禁色支木の袍をまとえば今上帝と知れるだろう。もっともその顔立ち、姿を御簾ごしならずにまみえる機会など、高位の公卿でなければそうそうありえるものではない。ましてや高貴なる帝が女房に姿をやつして内裏から逃げるなどと、雑色たちは想像もしなかっただろう。 又木形を文様に織った、松重の襲の袖のはしから長い指をのぞかせて額を覆うと、女房装束をまとった帝が怜悧として整った顔に苦笑を湛える。 「浮舟の君、とは言いえたものだな。流れに漂うのみで己の先行きさえ決められぬ」 柳眉のきりりとした顔には叡智が宿るが、己のふがいなさに憤る若さが表情に苦さを生み出していた。 仁王は痛ましいものを見るように、わずかにその長い睫毛を伏せてうなだれる。 「お上はただ、そこにおいでになるだけで、多くの民のしるべとなりましょう」 「そしてそなたの主たるものの駒ともなるな」 帝たる青年は仁王の、哀れみを誘うほどに細い首へ視線を転じつつ、冷ややかにそのいたわりを退けた。 仁王を贔屓として囲う主たる太宰大弐の大将は、帝の父たる上皇の院政を支持する一派のうち、もっとも力をもった臣下である。その大将が寺社参詣のため京を離れた折、専横を恨んでいた反対派により、上皇も帝も御所の一室へと幽閉されたのだ。権力のみちすじがどう流れているものであれ、その大儀のもとを奪われては大将とてどうするすべもない。御所を取り囲む兵士が帝を守るためのものだという名目ならば、それと戦えば帝に弓引くことになる。兵力でいかに勝ろうと、形式を欠いては正義がとおらないのだ。 「もっとも……駒ゆえに余にはその指し手を選べぬが」 静かなようでいて、その実内面に熱い思いを抱えた帝の、まるで自らの意思など意味がないかのような言葉を否定するように、仁王はゆるく首をふった。 「おとどはこたび、お上が囚われたことをひどく気にしていらっしゃいました。自ら笠懸などを好む快活なかたが、ひとつ部屋に押し込められて、気鬱に悩まされているのではないか、お元気でいられるだろうか、と」 「そしてそなたを内裏に引き込む手はずをととのえたのか」 計略をもって世をおさめる大将の顔を脳裏に描きながら、帝は自嘲を唇からもらす。 傀儡の役割を知る聡明さと、その立場に甘んじることのできない清廉とした性質により、己が仁王の大将や上皇に疎まれていることを帝は知っていた。そして、いかに己が彼らに対峙しようとしても、若さゆえの無謀と、まるで相手にされていないことも。 それゆえ、上皇をさしおいて自分を御所から救い出したことが不思議だった。 だが眉根を寄せた帝に、仁王が思いもよらぬ答えを返す。 「今宵がことは、私ひとりの考えでございます」 「そなたひとりだと」 「はい、文は届きましたがおとどはまだ参詣の帰途についておりません。もちろんお連れするさきはおとどの館になりますが」 あまりにもあっさりと述べられたその事実に帝は瞠目する。 「そなたは己の身がどうなるか案じなかったのか、浅はかな」 咎めるように口にすれば、それこそ清浄な微笑みを浮かべ仁王が決然として言い切った。 「私ひとり、お上の身に比べましたらどうというものでもございません」 艶やかな表情もひどくうるわしい仁王だったが、そのときの潔く凛とした風情は、あまたの美姫を見慣れた帝であっても、目を奪われるものがあった。 だがすぐに厳しく声を低める。 「そういうものではない、そういうものではないぞ、仁王。そなたを失えば、そなたの主しかり母君なども、身を切られるような思いを味わうであろう」 「母は亡くなりましたし、主には幾人とお気に入りの白拍子がおりますれば」 「だがそなたほど……うつくしいものはおるまい」 思わずそうこぼした己の口を、帝は慌てて噤んで視線をそらした。 いつもならば、誰を前にしようとまなざしの強さだけは負けまいと、切り裂くように前を向くことを誇りとしていたはずだった。それが、たかだか白拍子ひとりを前に崩れてしまうとは。 手にした扇を広げようとして、己の装束がいつもと違うことにはたと気づく。 落ち着かぬ気持ちは、その衣装のせいだろうと理由をつけた。 「いや、いまのは流せ。女の身で、よくぞ余を助けてくれた。礼を言う」 やわらかな声が出たことに自身で安堵しながら仁王を窺えば、ほんのりと頬を染めた仁王が白拍子らしい機転のきいた戯れを言葉にして返してきた。 「私は女ではございませんもの」 「そうだな、余もいまは余ならざる」 張り詰めた緊張のない雰囲気というものを、帝ははじめて味わうような気がした。 「どうしてだろうな、装束が違うというだけで、なにか違うものになったような気がする」 そしてそれは、穏やかであたたかな思いを胸に沸き起こす。 「ふだんの余ならば、こうしてひとと気軽に話すことも触れることもできぬからな」 そつと腕をのばし、帝は仁王の肩に手を置いた。そのまま女房装束で覆われた胸に、男の力で引き寄せた。薄い背中を抱き込めば、たよりないその身体がひどくいとおしい。 「なにか、今宵の褒美を与えねばならぬな」 「いいえ、そんな」 「望みは口にせねばわからぬぞ。そうだ、腕を放せという願いはきけぬ」 からかうように促せば、仁王の逡巡はほどなくして解けた。 「許されるならばもう一度、お上の前で唄を舞いたいと思います」 「かまわぬ。いや、余が所望する。だが、いま、そなたもう一度、と申したか」 掴んだ肩を同じ強さで引き離し、帝はまじまじと仁王の顔を覗き込んだ。 今度はその真摯なまなざしに、仁王のほうが視線をさまよわす。 「お上は覚えてはいらっしゃらないかもしれませんが。春のころでございましたでしょうか、主に連れられて内裏に参りました」 「桜の宴のときか……」 上皇と大将が白拍子に入れあげていることは有名であり、どちらの抱える白拍子がすばらしいか、比べるための宴をひらくことになったのだ。 だが、なよやかな女性が男装をするなどという酔狂さへの反発と、上皇と大将の寵愛を競い合う白拍子たちに興味が持てず、もっぱら帝自身は桜ばかりを鑑賞していた宴だった。 その宴で思い出されるのは、儚く舞い散る桜花と、ひとりの白拍子である。 「……見事であった」 吐息を吐くがごとく賛辞をもらすと、帝は意識をそのときの宴へと引き戻した。 ひるがえす手はしなやかに、その歌声は朗々として、性別のみならずひとであるか精霊であるかさえ判じがたいほどに、夢幻を漂わす舞だった。 彼女が舞っているさなか、まるで柳がごとき細い身体をさらうように強い風が吹き上がり、一度に御所の桜を散り果てさせた。それでも、けっして唄は途切れることなく、舞は揺らぐこともなく。 ただその風は内裏の御簾を巻き上げて、ほんの一瞬、帝の姿を垣間見させた。 得がたき行幸、と取り繕われたが、そのとき、舞う白拍子と帝は視線を交えたような気がした。 水干という男装ながら、背に流れる髪は女性らしく長く艶やかで、いくすじかそれが頬にかかれば、その肌の白さがより際立って見える。 手にしているのは蝙蝠だったが、その腰の白鞘巻の太刀でもって、なにかを突かれたかのような衝撃があった。 「そなたに、声をかけたいと思ったのだ。思ったのだが」 上皇と大将につれられていった仁王に、帝がなにを言えるものでもない。 帝はふたたび、仁王の身体を胸に抱きしめた。 「余はそなたをこの手にしたいと思うことすらままならぬ……だがいまならば聞きとがめるものもおらぬし、なにより余は余ならざる。思いを、ありのままに告げることができるかもしれん」 「いいえ、けっして、けっしてなにもおしゃいませんよう。御身の言葉は、軽々しくお使いになられてはならないものでございます」 気丈さは消え、あってはならぬことと仁王はふるえる。それは怯えゆえか、はたまた期待ゆえなのか。 悩むことを、帝はあえて放棄した。 「ひとの口に戸は立てられぬが、ほんのひとときならば、その唇をふさぐことも許されるだろう」 告げた言葉は、仁王の願いどおり、こころのうちの思いそのものではない。 仁王の抵抗は児戯に等しいていどのもので、抱き込まれた胸のうちで両腕を押し付けようとするさまは、しだいに力なくすがるものへと変わっていった。 黒髪に手をそえ、帝は唇をそつと触れ合わせる。 軽くついばみ、ついで押し付けたそれを離せば、仁王の瞳が潤んで見えた。 あふれ出る思いを抑えきれぬように、仁王の息づかいが荒くなる。 「……ほんとうは、もうひとたび、お見かけすることができたら、と思ったのです」 か細い声が、ほつりと耳朶をうつ。 「お上が囚われていると聞き、いてもたってもいられなくなったのです」 かける言葉もなく、帝はただ強く仁王を抱きしめる。 今の自分はいつもの自分ではない。言葉をおしとどめる必要はない。 だが、いつもの自分ではない今に、なにを約束してもそれはあまりにもあやうい。 そして、本来の姿に戻ったとき、その約束もなにもかもが、もっとあやうく、たよりないものとなることはあきらかだった。仁王は大将と上皇が争うほどに寵愛を受ける白拍子であり、己は今上帝とは名ばかりの、なんの力も持たない男だった。 「仁王、そなたの香りは蓮の花、か」 腕に抱いた仁王の首が、いとおしくもこくりと小さく頷いた。 「余はこれから、この香りをまとって生きることを誓おう。この先、触れることがなくても、言葉をかけることがなくても、この香りが余の思いを伝えるだろう」 「お上……」 「それがわが身の定めなら、川をながれる浮舟がごとく、ただ悠々と漂いて生きよう。だが、いかな激流となろうとも、わが意志は決して沈みはせぬ」 ゆるやかに牛車が闇夜に止まる。 逢瀬は涙のひと雫がこぼれるそのときに、儚くもひそやかに終わりを告げた。 そこにはただ、淡い蓮の花の香りだけがしばし留まる。 醒めぬ恋を残すように。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。 |