□■ 魔王の花嫁 ■□


 ため息さえも法悦がゆえと判ぜられるさなかである。
 ましてや伏せた眦に浮かぶ涙など、歓喜のために溢れたものにほかならぬと、目にしたものの意識にも残らぬだろう。
 うつむいて歩くイシルディアの足元には、あまた方位からゼラニウムの花と柘榴木の実がとぎれることなく降り注がれていた。花びらははたりと薄羽瞬ける蝶のごとく、瑞々しく熟れた実は紅き真珠を思わせて軽やかに舞い零れる。添えられ掛けられる言葉はどれもが幸いと祝福を願うものだった。
「ひどいわ……」
 歓声に飲み込まれるものと思っていた呟きは、緊張のためかイシルディアの予想よりも硬い声であたりにもれた。
 手を重ね、隣を歩くひとには確実にそれが聞こえただろう。その証拠に、怖気づいてふるわせた手のひらが不機嫌そうに強く握りこまれた。
 ならばいっそ、とイシルディアはさらに言葉を紡ぐ。
「私の意志なんてどうでもいいのね」
「そうだといえば満足なのか」
 返された冷たいその囁きを聞き、大気のみならず地表に這う影さえも凍りついて動きを止める。遥か天上の星たちも、瞬きを止めてなりゆきを見守った。
もっともそうした不穏さはほんのひとときのもので、すぐに鳴り響く荘厳なる鐘の音に押し流され、立ち上る祝祭の香煙のように淡やかにかき消える。
 不快を示して眉をひそめるだけで、世界を暗く沈ませるほどの魔力を持つそのひとが、これからイシルディアが誓いの口づけを行い、生涯の夫とする相手だった。
「私はあなたの玩具にはならないわ」
 なにかを話していなければ気を失ってしまいそうだった。
 小さな公国の公女であったイシルディアにとって、異界の王にして魔族たちの長であるひととの婚礼は、生まれながらにして定められ言い含められてきた運命である。
 それは予言とも、呪いとも呼び習わされるものだった。
 恐ろしくうつくしく強大な魔力を持つ魔族と接して生きてきた人間にとって、一国の王女ひとりの犠牲で苦悩が軽くなるものならば、それは願ってもないことだ。そもそも王族などというものは、そういうときのために存在するものである。
 イシルディアに許されたのは些細な抵抗だけで、せめてもと非力な女性の身で剣を習った。だが公女にして騎士となったイシルディアが、今まさに隣にたつ魔王サリエリリウそのひとと、戦場で出会うこととなったのはどこまでも皮肉なものだった。
「わたしがいつきみを玩具のように扱った」
 さきほどの不機嫌さがうそであったかのように、サリエリリウは楽しげに喉を鳴らす。残酷なまでの優美さで、獲物を前にした獣のごとく生き生きと、重ねた手のひらを弄ぶように撫でられた。花嫁の機嫌をとるような、そんな気軽な所作にさえ陶酔してしまいそうになるほどに、魔王の存在は魅了の力に満ちている。
「いまもそう、そして出会ってからずっとよ」
 見つめることが苦痛なほどにうつくしい容貌の魔王だが、顔を見ずにならばイシルディアも思うままに言葉を操れた。意地をはることも、拗ねてみせることも、ただ素直にその胸に身を預けることと比べればはるかにたやすい。
 ひさかたぶりの慶事に取り囲む群衆は津波のごとく押し寄せて沸く。
 そのなかにあっては、儀式の主たる花嫁の顔色がわずかばかり青ざめていても、処女じみた潔癖さによる憂慮にすぎぬと、気に留めるものとていないだろう。
 だからこその頑なさだった。ここにいるだれもが、イシルディアの気持ちなど推し量ってはくれないのだ。
「きみが玩具ならこんなまねなどする理由がないだろう」
 サリエリリウの悩ましげな薄い唇からもれた笑いが、婚礼という儀式さえ茶番だと断じるような嘲笑に思え、イシルディアは痛みに胸を詰まらせた。魔族としては年若いせいか、あるいは生来の気質によるのか、サリエリリウの口調も態度も、イシルディアにとっては幸いなことに魔族のなかでもっとも接しやすい。だからこそ匂わされる親しさに寄り添いそうになる一方で、冷ややかな一面を見せられるたびに怯えが湧き上がった。
 燃え立つ緋色の花と実に象徴される、散りゆく純潔と満ちたる豊穣はこの儀式へと課せられた義務であり期待である。
 しなやかな手で祝福と高揚を投げ上げる魔族の乙女たちの顔には、愚かにして脆弱な人間にすぎぬ身で僥倖をえたイシルディアに対し、憧れと羨望が浮かんでいる。その羨みが嫉妬をこそわずかばかり孕みはしても、醜とした憎しみとならぬのは、ひとえにイシルディアの隣で手を引くひとへの、まったき敬愛のなせるわざであった。
 なによりもうつくしく権力と魔力を統ずる魔王は、魔族にあっても唯一無二の存在であり、彼が望んだ花嫁に、異を唱えることのできるものなどいないのだ。
 押し寄せる熱気がイシルディアの喉元を塞がせ、足取りをおぼつかなく頼りなげなものへとさせる。期待し、裏切られることにもっとも怯えているのが、イシルディア自身であることをだれが理解しえるだろう。
「私は魔王の花嫁になんてなりたくなかったわ」
「知っているさ。それでもきみはわたしの妻になる、ちがうのか」
 そう問い返す魔王そのひととて、イシルディアの思いをわかっていない。
 悔しさに唇を噛み、イシルディアは魔王から大きく顔を背けた。
 魔王を愛しているのだと、これから宣誓しなければならない。
 真実であるそれを、信じてはもらえぬままに。


 豊かな赤毛を巻き上げてピンを打つ。
 鏡のなかの自分の姿に、イシルディアは巻き上げたばかりの髪を苛々と崩した。
「いやになるわ」
「イシル」
 愛称で呼ぶそのひとは、紫に透ける黒い衣装を身にまとい、ゆったりとしたソファにしなやかな身体を沈めていた。早くから支度をすまし、水晶でできた駒でゲームをしていた彼だが、待つことにもそろそろ飽きたらしい。
「だって髪の毛がまとまらないの」
 何度試みても、イシルディアは鏡のなかの自分の姿に満足できなかった。婚礼の儀式の時間がせまっていることは知っている。もしかしたら、とっくに予定の時間を過ぎているのかもしれない。だがたとえそうでも、いつもどおりの髪型で婚礼を待つ群衆のなかに押し出されるのはいやだった。
 そうしたイシルディアの不満が理解できないというように、青年は呆れたふうに両手をあげる。漆黒の孔雀を思わす華やかな容貌でなされる所作は、気安いものであれ麗しい。
「いつものことだろう」
 到底思いやりがあるとは思えないその言葉に、イシルディアは持っていた櫛を鏡台に放り投げて叩きつけた。やつあたりをされた象牙の櫛がかわりにか細い叫びをあげる。
「いつもそうだからせめて今日だけはっていう気持ちがわからないのかしら」
 鏡ごしに強く睨み付けると、イシルディアの靄がかったような灰をおびた緑の瞳が、生命を宿した翡翠のように生き生きと煌き燃え上がる。思い悩み嘆く姿が絵になるひともいるだろうが、イシルディアにかぎっては怒りに頬を上気させたときこそが輝かしかった。
 それを知る青年は微笑み、いきりたつイシルディアをゆっくりと眺め見る。
「そのままでもかまわないと思うが」
「あなたはよくでも私がいやなの。どうして私の髪はこんな色なの。どうして私の瞳はこんな色なのよ」
 子供のころからいつも思っている不満を言い募れば、そのなさけなさに涙が滲んだ。
 イシルディアの髪は赤銅色でくせが強く、大輪のダリアのごとき鮮やかさで華奢な背に広がっている。小柄な姿とその緋色の髪から、故国では紅スグリ姫と称されていた。
 魔王の花嫁になるのだと、小さなころから言われていたイシルディアだが、悪意とは常に大きく聞こえるものである。影で囁かれる噂もしっかりと耳にしていた。
『魔王の花嫁になるのに、あのていどの容貌でいいのだろうか』
 ひとびとが悲劇の王女に願うような、金の髪と青い瞳は弟に受け継がれ、イシルディアはどちらかといえば絶世の美女といわれた母ではなく、無骨な武人として名をはせる父王のほうにより似ていたのだ。
 身勝手な理想を押し付けられる悔しさから、イシルディアはただのうつくしい姫君という存在ではなく、意志を持った生贄として騎士になるための修練を積んだ。魔王の花嫁にふさわしくないと、庇うはずのひとびとから誹りを受け続けるくらいなら、いっそその災いの原因である魔王を己の手で滅ぼそうと決意したのだ。
 そうして出会ってしまった青年はしかし、イシルディアの頑なな覚悟をたやすく打ち砕くほどにうつくしかった。この青年の隣にたつにふさわしいだけの美貌をもつものなど、世界のどこをさがしても見つけることはできないだろう。
「あなたが着ればいいのにこの衣装だって」
 豪奢なレースとたっぷりとした襞の衣装は、影を蜜にして結晶と化したがごとき漆黒で、花婿の衣装と揃いのひどく華美なものである。自分がこの衣装に似合うとは、到底イシルディアには思えなかった。
「わたしが着てもしかたがないだろう」
 青年はその細い眉をひそめたが、どんな表情をしてもいやみなほどに整っている。青年がうつくしいことはわかっているのだから、そろそろその美貌を見慣れてもいいはずだった。しかしイシルディアはいまだにふとしたおりに見惚れ、息をするのを忘れる。
「あなたのほうが似合うもの」
 気恥ずかしさを隠して、イシルディアはあからさまに視線をそらす。
「私たち、衣装を取り替えて立場を変えたほうがいいんじゃないかしら」
 なんとはなしに口にした言葉だったが、その想像は思いのほか面白く、緊張に苛立っていたイシルディアの頬に乙女らしい仄かな微笑みを呼び起こした。
「そうよ。私、男性パートのダンスも踊れるのよ。騎士訓練を受けていたときに習ったの。実家のほうでは女性パートを習っていたから、騎士仲間たちの練習によく付き合わされていたわ」
 それまで長く暮らしていた世界の仲間のことを思い出せば、表情も自然と柔らかなものになる。婚礼の式のあとの宴で、魔界の貴族たちの前でダンスを披露しなければならないことも、イシルディアを憂鬱な気持ちにさせていたのだ。
なつかしさに穏やかな微笑みを見せるイシルディアは、鏡の向こうで青年が不機嫌になったことに気づかなかった。
「それできみは、いったいどれくらいの男の相手をしてやったんだ」
「ええと、よく踊ったのはマロウやリスナール、クライブかしら。でもやっぱり一番多いのは弟のアイザックね。あの子ってばいつまでたっても右と左の区別がつかないんだもの。なんども足を踏まれたり頭をぶつけそうになったわ」
 くすくすと笑い声さえもらして楽しげに話すイシルディアに、魔王サリエリリウの宵闇の紫の瞳が細められた。
「わたしはいままでだれともダンスをしたりしたことはないね」
 冷ややかな声にはじめてイシルディアはサリエリリウの機嫌の悪さに気づき、その理由をもしやとばかりに問いかける。
「踊り方は知っているのよね」
 知らないのなら教えてあげる、と言いかけたイシルディアに、サリエリリウはすくと優雅な動作でソファから立ち上がった。その姿勢といい足はこびといい、ただ歩くだけでどんな踊りの名手よりもひとめを奪うことはまちがいない。
「スバローの教育に抜かりはないさ」
 王の執事である魔族の名前をサリエリリウはあげ、そのいやみで酔狂な性格を知るイシルディアはこのさきの生活を思ってため息をついた。
 魔王の花嫁になれば、あの陰険な老僕からあれこれと小言を言われることになるのだろう。料理はともかく裁縫のまったくできないイシルディアは、この婚礼の衣装に花嫁の義務として行う刺繍がうまくできず、意外に器用なサリエリリウに手伝わせるということをしたため、すでにたっぷりと文句を言われていた。
 げんなりと肩を落としていたイシルディアは、サリエリリウがそばに来ていたことを気に留めてもいなかった。腕をつかまれ、正面から向かい合わせにされて、ようやくその近さに驚きの声をあげる。
「サリエ」
「頭をぶつけるって、これくらいそばに寄ったのか」
 強い力で両腕を押さえられ、剣呑なまなざしをした凄絶な美貌を近づけさせられれば、うるさいほどに胸が高鳴る。白皙の頬に落ちる睫毛の影さえ精緻なつくりだ。
「きみのことをほかの男がどう思っているのか考えたことはないのか」
「なにをいってるの」
 とにかく腕を放して欲しい一心で、イシルディアは自由にならない身体でもがいた。
 身じろぐイシルディアに、息がかかるほどの距離でサリエリリウが薄く笑う。
 その拍子に、紫に光る長く艶やかな黒髪が鋭角な肩に零れ落ちた。
「きみはわたしと結婚なんてほんとうはしたくないんだろう」
「サリエ」
「その、マロウだかリスナールだかクライブだかアイザックとでも結婚すればいいさ」
 皮肉げな物言いと乱暴な行動の理由がわからず、イシルディアは呆然と目の前のうつくしくも歪められた魔王の顔を見つめた。
「アイザックは弟よ」
「そんなの知るか」
「話したじゃない」
「聞いてないね」
 とりつくしまもない拒絶に、イシルディアはきつく唇を噛み締める。サリエリリウにとって、自分の話すことなど興味もないものなのかと、思い知らされて落胆した。
「そんなことを言ったら私だって、あなたが私とほんとうに結婚する気があるのかどうか聞いてないわ」
 涙をこぼさなかっただけ、自分のなかにはまだ気丈さがあるのだと、イシルディアはゆっくりと気持ちを落ち着けるように大きく息をはく。しかしイシルディアのそうした虚勢さえ突き崩すように、容赦なくサリエリリウは言葉を振り下ろした。
「さっきからきみは鏡の前から動かないし、時間を引き延ばしているようにしか思えない」
 自分の気持ちがかけらも伝わっていないことがわかると、その切なさにイシルディアは掴まれた手のひらを握り締めた。悔しさは苦しさとなって喉を這い上がる。うつくしさに引け目を感じたことなどないだろう魔王の、凍りつくようなまなざしが肌に突き刺さった。
「あなたの隣に並ぶのよ。それがどれくらいいやなことかわかる」
「ほらやはりいやなんだろう」
 やっとのことで言葉にした思いも、一蹴されてしまえばそれまでだ。
「あなたの隣に並んでも恥ずかしくないようになりたいだけなのに」
 耐え切れずにうつむけば、赤い髪が頬を覆う。
 生贄の血のごとき深紅は、新月を映す湖の裏に位置するこの異界で、漆黒以上に尊ばれる唯一の色だった。温かな血をもたぬ魔族にとって、その鮮血の赤ほどこころをときめかすものはない。その憧れを、イシルディアはまだ知らない。
「たくさんのひとに見られるのよ。私があなたの花嫁だって」
 醜い姿をさらす自分を想像し、その不釣合いさにイシルディアは泣きたくなった。
 華奢な肩を嗚咽を堪えてふるわすさまは、抱きしめて守りたいようにも、さらに追い詰めて泣かせてしまいたいようにも思えるほどに儚い。
「それが結婚式というものだろう。わたしだって我慢するんだ」
「あなたがなにを我慢するっていうの」
「わかってないのはきみだろう」


 式の直前の言い争いを思い出せば、もはや耐えることができなかった。
 花嫁の証である、ジャスミンと柑子の花冠を被せたヴェールをサリエリリウに捲くられたときには、イシルディアはその瞳を溢れ出る涙で濡らしてしまっていた。
 サリエリリウの手が止まる。
「イシル……」
「私は、魔王の花嫁になんてなりたくなかったの」
 紫の瞳に、痛みなのか狼狽なのか、傷ついた影がよぎって消えた。
「知っている。だからきみはそんなにも小さな手で、花ならず剣を携えてわたしの前に現れた。拙く脆弱な力と、魔王への嫌悪でわたしの竜を倒した」
「そうね、でもあのときあなたは、魔王なんかじゃなかったわ」
 ふたりの出会いは戦場であり、イシルディアはサリエリリウの騎竜を討ち、サリエリリウはイシルディアをその場でさらった。そのとき、実際に軍を率いていたサリエリリウは魔王ならず、魔族軍の将軍の勲章を持つものにすぎなかった。
 当時の魔王は、さしてうつくしくもないイシルディアに面白みを感じず、捕らえたイシルディアに関心を抱かなかったらしい。捨て置かれ、このまま朽ち果てていくのかと思い始めたある夜、魔王がイシルディアを監禁していた部屋に訪れた。
しかしイシルディアが慰みに弄ばれる寸前、サリエリリウが魔王の命を奪い、その結果、魔王という位を彼が継いだのだった。この婚礼は、新魔王の即位の儀式でもある。
「魔王の花嫁になんてなりたくなかったわ。でも私、あなたの花嫁にはなりたい……」
 聞こえなくてもかまわないと、イシルディアは唇の動きだけで囁いた。
 その瞬間、サリエリリウは不機嫌にも、嬉しげにも聞こえる声で唸り、イシルディアをその胸にさらった。戦場ではじめてまみえたときのように、荒々しくも狂おしく。
「わたしが欲しかったのは魔族の王などという称号ではなく、魔王の花嫁として現れたきみだ。きみこそがわたしの花嫁だ」
 イシルディアの細い身体を、外見の優美さに似つかわしくないほどの逞しさで、サリエリリウが抱き上げる。そしてそのまま、有無を言わせずに群集を置いて高く飛翔した。
「きみをほかの男に見せるだけでも我慢できないんだ」
 その姿は竜のごとく流星のごとく。遥かに地表を離れ、朽ちて燃え尽きる日暮れの彼方へとまたたくまに飛び立った。すでに花冠はどこかに吹き飛ばされている。
「わたしの思いをわかってほしい」
 押し当てられた胸に熱い息を吐きながら、イシルディアはサリエリリウの顔を見上げる。
 突然の行動に、なにをどう考えればよいのか、しばらくはイシルディアも呆然としていた。自分の思いが伝わっているのか、その確証がつかめない。
 それでも、魔王に逆らえるものなどこの世にだれひとりとしていないのが事実。
 重ねられる唇に、うっとりとした気分でイシルディアは目を伏せる。
 魔王と花嫁の口づけと宣誓は、ふたりだけでひそやかに、その夜いくたびも行われた。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。