□■ 世界の果て ■□


 吐息が灯りに触れたなら、その燈火は跡形もなくかき消える。
 仄かな灯りが揺れるたび、燭台の柄に巻きついた白蝶貝の鱗持つ蛇が、影を走らせて銀色にうねった。いまにも蛇は牙をむき、蝋燭をかざす細い腕を、ずるりと這い上がるかに見える。それが不吉な印象とならず、見事な細工への感嘆となるは、幻影を生み出すやわらかな火の、あたたかな灯りゆえだった。真綿の芯から香り立つ、菫花を描いた蜜蝋蝋燭そのものが、夜に目をひいてひどくうつくしい。
 しかし古めかしく雅やかな蜜蝋の火は、重苦しく悩ましげにもらされたルチアのため息にさらわれ、ひと息のもと、蛇も菫も葉叢の奥にかき消えた。
吐息は儚くもあざやかに闇を呼び寄せる。
 暗闇など怖くない。むしろルチアにとっては親しみさえ感じるものだ。
 ただ、あっさりと消えてしまった灯りに対しては恨みに思うところがある。恐れはなくとも、ほかにすがるもののない明けきらぬ闇のなか、優しさも慈悲もなくルチアをこの場所に残し、気ままに溶け失せたそれはあまりにも素っ気無い。
 どうしてこんなにも薄情になれるのかしら、と唇にのぼらせた呟きはしかし、ひかりと重なってルチアのこころに浮かぶ、恋しいひとへと向けた言葉である。
 そのひとの立ち去る背中ばかりを思い出すのは、その姿の印象が強いせいだ。いつも気まぐれに現れてはルチアの気持ちを乱すだけ乱し、わずかな憐憫もなく不意に立ち去るのが常である。そしてルチアもまた、彼が独特の練り上げた艶をもつ銀髪を揺らし、そののびやかな身を翻してからでなければ、逞しい長身を見つめることができなかった。
 瞳をあわせれば隠している思いが溢れ出てしまう。唇をひらけば押し込めた言葉がこぼれ出てしまう。胸に身を預けることも背中にすがることもできないというのに。
 決して口にしてはならないその言葉を、ルチアはそつと闇のなかに囁いた。
「あなたなんて好きにならなければよかった」
 ため息に吹き消された灯りよりもすばやく、言葉は大気に紛れ込んだ。
好きにならなければよかったと告げることは、もはや自分ではどうすることもできないほど、焦がれてしまっているのだと認めることになる。そしてそれは、もうずっとまえから惹かれていたのだと告白するのとなんらかわりない。
 それはルチアにとって禁じられた言葉だ。
 彼を思うと、必ずといっていいほど高鳴る胸を抑え、ルチアは長い睫毛で頬に影をはく。
 ルチアがその清楚な白桔梗のごとき手で抑える胸を、苦しいほどに喘がせて心惹かれている海賊バルトフォラスは、去り際にいつも取引ともいえる賭けを投げかけていた。
 自分を好きになればここからさらう、と初めて出会ったときから断じるバルトを、ルチアが好意をもって思わなかった日はない。これまでだれが、ルチアにそんな言葉を与えてくれただろう。巫女として教会に仕えるルチアに、祈りと感謝の意思を伝えてくるひとびとは多くいる。だが、それを受け止めるルチア自身の願いを聞き取り、それを叶えようとしてくれたひとはいないのだ。命の恩人というのが、ルチアの暮らす教会の法王だとするなら、バルトはこころの恩人といえる。地中に埋もれ、虚ろに朽ち果ててゆくこころが、バルトの言葉をひかりとして、軽やかに芽吹いたようなものだった。
 さやかに揺れ茂る青草と、にぎやかしく舞い降る楓の葉、ひそやかに降り積もる氷の花に華々しく咲き誇る辛夷の薄白を、いとおしくうつくしく思えるようになったのも、バルトがそれらの移ろいゆく儚さを話して聞かせてくれたためだ。
 そうしたバルトの、花を手にするような、女性に手馴れた扱いに傷ついたこともある。やわらかな笑みを浮かべる菫色の視線が、自分だけに注がれているわけではないのだと知ったときの苦しさは、自分に与えられた言葉が揶揄にすぎないと、卑屈になりかけるルチアを逃さずに追い詰めた。
 たとえ自分が彼にふさわしくなかったとしても、だれにも渡したくはないという暗い欲望が、ルチアに恋を自覚させたのだ。
 逢瀬のなかで、なんどあなたが好きだと言ってしまいたくなっただろう。
それが出来ないのは、バルトの申し出が、ルチアをここから連れ出すことを目的としてあげられているからだ。
 ルチアは力なく伏せた顔をもたげ、佇む教会の中庭からも見ることができる、月に向かって聳え立つ塔をふり仰いだ。絡まる蔦はそぎ落とされ、堅牢な石だけが冷ややかに積み上げられた姿をさらす。塔の向こうには広々とした海原があれ、塔そのものには外をうかがい知るための窓はない。ただその塔の天井にのみ、薔薇模様に装飾された色硝子がはめ込まれていた。
 薔薇硝子の塔、あるいはルクレツィア燈台と呼ばれるそれが、ルチアが日頃寝食をし、祈りのために身を置く場所である。またそれだけでなく、ルチアの身体と運命が囚われている場所でもあった。法王の許しがなければ、こうして中庭に出ることもできず、ましてや教会の敷地外に行ったことなど、これまでの生涯で一度たりとなかった。
 さらってほしいと願えば、バルトは塔から連れ出してくれるだろう。だがそれは、あなたにずっとそばにいてほしいという願いが叶ったことにはならない。
 ルチアには好きになればと条件を示しつつ、バルトがルチアに対する恋情を口にしたことはなかった。ならばバルトの言う好意とは、信頼に置き換えられるものではないだろうか。少なくともルチアは、自分が彼を恋い慕うほど、彼に好かれているのだとは到底思えなかったのだ。そもそも、苛立ちや不機嫌ささえも上質な凄みと気高き艶に変えてしまう美丈夫であるバルトと、ただ祈ることしかできない自分ではつりあいがとれない。
 そうした悩みが、たとえ灯りを吹き消してしまうとしても、深いため息をルチアにつかせる由縁だった。己の恋の成就を願うことはあまりにも罪深く愚かしい。
 あなたさえいなければ、こんなにも苦しい思いをすることはなかったわ、と責める言葉を呟きながら、ルチアの胸をしめつける思いは憎しみならず切なさだった。言葉にすることはできない思いが、突き刺すような痛みとなって翡翠色の瞳によぎる。
 幽し月のひかりが、せめてもの救いを与えようとしてかルチアの足元を照らしていた。もっともそのひかりこそがあたりを虚ろに翳ませ、静謐と漆黒を立ち込めさせるものだ。噴水を彩る猛々しい霊獣の彫刻のみならず、生命の輝きを宿す常葉木さえ、青白く淡い月光を受けて、消え失せるかのごとき風情を漂わせる。
 ルチアは役割を終えた燭台を噴水の縁に置き、自身もそこに腰掛けた。
 触れ合い砕け散る噴水の飛沫は、あたりの風景をものさびしくぼんやりと靄がからせる。
 蝋燭の灯火がごとく、いまにも消えてしまいそうに見える世界を前に、ルチアは胸のうちで自分を縛る戒めを思い浮かべた。
 箒星が落ち、月が欠け、太陽が沈んでも。
 ルチアが薔薇硝子の燈台から消え失せることなどできはしない。
 悲しげな微笑みとともにうつむけば、肩をすべる髪が眩い。ゆたかに流れる滝のごとく、背を被うその髪は純白の飛沫をあげて弾け、黄金色の火花を散らして目を焼くほどに輝いていた。その髪の輝きこそがルチアを塔へと縛りつける楔である。
 教会に伝わる呪いのかかった半月形の櫛を使い、日暮れとともにルチアの髪をゆるやかに梳けば、ルチアの黒髪はたちどころに燃え上がる黄金へと色合いを変える。
 その炎は遥か彼方まで世界を照らし、還らぬひとを待つ民の慰めと希望になるのだ。
 ルチアの髪は月に一度わずかに切られ、そのひとすじが莫大な金額の寄付と引き換えに配られる。法王や枢機卿の弔いの文句と同程度には、教会の利益に貢献しているだろう。
 それだけでも、教会が燈台の巫女たるルチアを手放すはずはなかったが、塔にいなければならない、と強く思っているのはルチア自身も同じである。
 自分の指先を見つめ、その力なき手を憤るまま強く握り締めた。
 夫を亡くし、ひとり息子を王宮の兵役へと出さねばならなくなった母親が、ルチアの髪を求めて教会の奥まで押し入ってきたことがある。たまたま塔ではなく法王の部屋にいたルチアは、その母親と対面した。危険な任務へと赴く子供のために、どうしてもルチアのひかり輝く髪を、お守りに持たせてやりたいと泣く母親が、教会の警備兵に引き立てられていくのを、黙ってみていることしかできなかった。
 すがりつく手を、しっかりと握ってあげられなかったことが後悔となっている。
 救いは、求めるものすべてに平等に与えられるものではないのだろうか。
 そのルチアの考えに同意し、そしてその救いは、ルチアの犠牲のうえになりたつものであってはならないはずだと言い切ったバルトの言葉が、脳裏に蘇る。
 そして言葉だけでなく、ルチアと呼ぶ声さえ聞こえた気がして、はたとあたりを見渡した。自然に頬が上気する。色めいたそれはルチアを少女らしく華やかに見せた。
 闇に深緑の鬱々とした銀葉アカシアは、螺旋えがく枝ぶりをあまた方位へとうち広げ大地にその陰を落とす。その暗がりに寄り添うように、長身の影が伸びていた。
 バルト、とひそやかな月のひかりにさえも溶けてしまいそうな儚さでルチアは名前を呟く。野茨や小鳩に向かって呼びかけるよりもはるかに甘く。
 いつから思い悩み吐息つくルチアを見ていたのか、ルチアが気づいたことにバルトは笑みを浮かべた。冷ややかなまでに整った顔が、人間味を帯びて解かれる。
 近づいてくるバルトのゆったりとした足さばきと足音よりも大きく早く、ルチアの胸がいまにも壊れて薄い身体を打ち破るほど激しく高鳴った。
 月光と黄金の炎に照らされ、触れ合わずとも重なる影。
私のすべてがこの影ならばいいのに。
 合わせることのできない視線を伏せて、ルチアは強くそう思った。
 うつむくルチアのふるえる肩に、バルトの苦いため息が落ちる。
 無防備すぎる、と口を開いたバルトは、熱情はあれどこか弄るような響きさえある低い声で、もしもおれがきみを辱めようとすれば、たとえばここできみの髪飾りをうばって、その飾りレースのついた帯をほどいて、きみの素肌をさらすこともできる、と囁いた。
 そうされる自分を想像し、ルチアはいっそう身体をこわばらせる。
 バルトの指先が壊れものにふれるように、ルチアの輪郭だけをなぞり空でしなやかに動いた。実際に触れられたことなどないのに、その優しさも激しさも、身体の内側に覚えこまされてしまったような気がするのは、そう扱われることをルチアも望んでいるせいだ。
こんなふうに弄るのはもうやめてと、か細い声で言っても、どれほどの威力があるだろうか。そう願っているのはほかならぬ自分なのだ。陶酔を見透かされてしまいそうな気がしてルチアが怯えていると、バルトの唇が皮肉げに歪められた。
 壊してしまいそうでできないな、と言われてしまえば、それがただのからかいにすぎなかったのだということがルチアにもわかる。初めて出会ったときにも、腰を抱かれて細すぎると文句を言われ、塔に囚われの運命を受け入れていたルチアは、運命に抵抗しろと厳しく命じるバルトに、身じろぐこともできぬほど身体を押さえ込まれた。世慣れぬ自分を翻弄し、そのくせバルト自身は余裕めいた所作をいつでもまったく崩さない。
 こういうところが、ひどいひとだと思うところだった。思わせぶりな言葉や態度でルチアのこころをかき乱しては、何食わぬ顔でルチアを置いて立ち去ってしまうのだ。
 まるで籠に囚われの小鳥をあやすように、うつくしい声で鳴けば籠から出してやると、一度も空を飛んだことのない小鳥の好奇心を引き出し誘惑し、恐れを弄っては嘲笑する。
 いっそその手で壊して欲しいと願う小鳥の気持ちなどは、素知らぬようにバルトは深く笑った。あまりにも身勝手なバルトの在り様に、ルチアは悔しさと切なさをつのらせる。
さらってくれると言ったのに、と呟けば、バルトが驚いたように菫色の瞳を見開いた。
 いつも驚かされてばかりのルチアは、やっと報いた一矢に仄かに喜び、そして言葉にして表してしまった気持ちに慌て、表情を読まれぬうちに噴水の縁から立ち上がった。
 だが逃げ出そうとした腕をつかまれ、強い力で引き寄せられる。
 もがくことすら出来ないルチアを、ようやく空け始めた空の薄明かりが照らし出した。
 まるでそれまであたりにこごっていた闇がルチアの影に隠れるように、黄金の髪は陽に照らされて黒々とした漆黒に染め上げられる。
 夜が明ければ、ルチアはたとえ跪いて祈りを捧げても、だれにも省みられない無力な少女だった。だれからもその価値を認められず、求められることのない存在である。
 だからこそ放して、ともがく一方で、放さないでと願っていた。ただこのひとのそばにいたいと思うことすら許されないなら、この鼓動にどんな意味があるというのか。
瞬く睫毛の先に雫が絡まる。苦しさをどうすれば伝えきれるのかわからない。息が止まるほどに恋に落ちている。抵抗は抱き寄せるバルトに向けたものではなく、囚われの塔へ、囚われた己のこころと運命へと向けられていた。
「あなたなんて好きにならなければよかった」
 頬に涙を流すまま、ルチアはバルトの胸に囁いた。抱きしめられる至福に、ただひたすら涙を溢れさせる。身を預ければ吐息が甘くもれ、まるであらかじめその腕に抱かれるために生まれてきたように思える。その思いごとルチアのたおやかな身体がくずおれる。
 しかしさらわれたのは身体だけでなく。
 海賊と巫女の賭けは海賊が勝った。
 すべてを捨ててこの恋に殉じると、禁じられた言葉が口づけのあいまにさらわれた。
 吐息が灯りに触れたなら、その燈火は跡形もなくかき消える。
 けれどその吐息が恋ゆえのものならば、胸に宿る燈火は、どこまでも世界を照らすもの。
 たとえ世界の果てまでも。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。