□■ そばにいさせて ■□ |
海賊と巫女は賭けをした。 「おれを好きになればここから攫ってやる」 巫女は表情に困惑を浮かべて呟いた。 「好きになんてならないわ」 海賊と巫女の賭けは続いた。 「おれを好きになればここから攫ってやる」 巫女は表情に微笑をたたえて答えた。 「好きになることなんてありえないわ」 海賊と巫女の賭けは続いていた。 「おれを好きになればここから攫ってやる」 巫女は表情に悲痛さを滲ませて叫んだ。 「好きになんてなりたくないの」 巫女の頬に涙が流れた。 「あなたなんて好きにならなければよかった」 海賊と巫女の賭けは海賊が勝った。 「ここから浚ってやる」 そしてひかりは燈台から盗まれた。 肌を撫で上げる闇はただ静寂だけをルチアに与える。 これまでのように揺らぐ炎を内包することもなく、素っ気ないまでの無関心さであたりを取り囲む闇にむけて、ルチアはそつと吐息を吐いた。 どうすればよいのだろうという思いはあるものの、脳髄のしびれたような感覚と手足の不確かさが身体を覆い、悩む端から靄がかる思考はあまりにも取りとめがなく。 吐息だけがルチアのそばにあった。 「如何したらよいのかしら」 呟いた言葉さえ箒星の陰影のように儚く、ただ継がれる息のやわらかな甘やかさが、それが苦悩のみのため息ならず、恋の吐息と知らしめていた。 自分の身体を、こころごと浚ったひとのことを思えば、その愛おしさに涙さえ浮かんでくる。悲しいわけではないのに、苦しくて痛みを訴える胸に手をあて、ルチアはその指先に触れた骨っぽい男の指を思い描いた。 「震えていたのはわたしだけ?」 怯えではなく、歓喜にこそ高鳴る胸を抑え、思いを伝えた愛しい人への問いかけを闇に囁く。 燈台と教会の敷地内しか知らぬルチアは、自分が潮の香りの蔓延した船倉などというものに足を踏み入れることになろうとは、想像すらしたことがなかった。燈台が、地上の生み出した闇たる海へと捧げられたものであったとしても、あくまでも巫女は地上に属するものとされていたのだ。 それはおかしい、と言ったのはルチアの恋人だ。 かつては海賊の王と呼ばれる存在こそが、燈台の巫女の所有権を有したらしい。 教会はあくまでも巫女の世話を行う機関でしかない、教会の専横は許さない、と手を差し出してきた恋人の、海賊王になるという誓いがルチアを不安にさせた。どうあがいても道具にすぎない存在の自分が、恋などできるわけがない。恋などしても辛いだけだと、追い詰められていくなかその手を振り払い続けた。 けれど結局は、道具でもいいからそばにいたいと、気持ちがくずおれて涙ながらにすがりついたのだ。 「だって、好きになってしまったのだもの」 触れた指先の優しさは彼の労わりと捕らえてはいけないのか。 掴まれた腕の強さは彼の思いに置き換えてはいけないのか。 押し付けるように与えられた口付けは、彼のこころの証ではないのか。 「どうして、好きだと言ってはくれないのかしら」 思索が呼び込む闇こそがルチアの身体から力を奪う。 「わたしのことなど……好きではないのかしら」 閉じ込められた船倉の淀んだ空気が肺に圧し掛かり、翡翠色の瞳が潤んだ。 つと、暗闇にひとすじのひかりが差し込む。 眩さにルチアが手をかざしたとき、木のきしむ音とともに船がぐらりと傾いだ。 「……きゃ、あ……」 甲高い声が甲板の扉から聞こえ、次いでやわらかなものが階段から転がり落ちる。 「アニー」 慌ててルチアは階段の下に駆け寄ると、痛みに縮こまる小さな背中を撫でた。しかしすぐにその手を払いのけられる。 「なれなれしくさわらないでちょうだい」 きらきらと瞳に怒りを燃え上がらせて言う少女に、ルチアは困ったような悲しいような気持ちで微笑んだ。この鮮やかな赤茶色の髪の少女こそ、ルチアを船倉に閉じ込めた犯人だった。船内を案内するといって置き去りにしたものの、ルチアが黙ってここにいることに不安と不満が溜まったのだろう。覗き見をするつもりが自分も落ちてしまうところが、少女がまだ本当に幼い、十にも満たない子供らしいところだ。 少女が睨みあげる瞳が強く閃く。 「言っておくけどあたしのことをアニーと呼んでよいのは父さまだけよ。あたしはアニャーニャ・クワトワ・クリスティン……最後にルクレツィアなんてつかないんだから!」 少女の物言いにルチアが首をかしげると、悪戯めいた笑みを少女は見せた。 「知らないなら教えてあげる。アニャーニャは父さまのお母さまの名前で、クワトワは乳母の名前、クリスティンがあたしの母さまの名前なの。父さまはあたしに、大事な女のひとたちの名前をつけてくれたのよ」 誇らしげに胸をはる少女に、ルチアは戸惑って瞳を瞬く。少女の父親がルチアのいとおしい彼であることは、最初に少女に会ったときに紹介をされていたため知ってはいたが、彼の名づけの意図には納得のできないことがある。 だがそれをルチアが言葉にする前に、アニーことアニャーニャ・クワトワ・クリスティンがさらに口を開いた。 「父さまは女のひとにすごくもてるから、ちょっといいかげんなところがあるの。父さまの言葉を真に受けてこの船まで来るなんて、あなたってそうとうに頭がわるいのね。ものの判断もつかないんだから」 胸をえぐる言葉はルチアの表情を翳らせたが、その程度の疑問や不審は言われずともすでに己のなかにあった。 「あのひとが女性に好かれるのは、わたしにもよくわかるわ」 だれも好きにならないと、凍るような気持ちでいた自分さえ、こんなにも惹かれてしまっているのだ。 「でも、諦められなかったの。そばにいたいって思ってしまったの。ほんのひとときでも、あのひとの眼差しを得られるなら、それでかまわないって思ったの」 だから、あの手をとってしまった。 「あのひとだって、なんのとりえもないわたしのことなんて、きっとすぐに飽きてしまうわ。だから、こんなところに閉じ込めたりしないで。それまでのあいだ、あのひとの姿を見ていられるように。疎まれたならすぐに海に飛び込めるように」 海の泡にのまれてもかまわなかった。というより、あのひとの暮らす海に永遠に沈めるように、塔から連れ出してもらったのだ。あの塔のなかで思いだけを抱えたまま、朽ちていくことなど耐えられなかったのだ。 瞳から涙が溢れ、両の手のひらでルチアは顔を覆った。嗚咽は抑えきれず喉を震わせたが、なによりも抑えきれずにいたのは、胸に灯る思いだった。張り裂けよとばかりに荒々しく、嵐のごとくに胸に渦巻き、湧き上がり溢れ出るそれは苦しく、狂おしく、ルチアの身体を蹂躙した。 「お願い、あのひとのそばにいさせて」 願いが、声になったかどうかはわからない。 少女はしばし圧倒されたように口を噤んでいた。 だが、おそらくは初めて目にしたのであろう残酷な恋の虜囚を、幼い少女は嘲るようなことはせず、拙いながらもあたたかい優しさで慰めた。 涙するルチアにきれいに洗濯されたハンカチを差し出したのだ。 「あたし、泣いてばかりいる女のひとってきらい」 意地は残っていても、もともと意地が悪いわけではない少女は、泣いているルチアを痛ましそうに顔を顰めて見つめ、付け加えるように言った。 「きっと、父さまも泣いているあなたより、笑っているあなたのほうが好きだと思うわ。燈台から戻ってくるたび、さんざん聞かされたもの」 「え……」 「父さまはあなたのことが好きなのよ」 わずかにむくれつつも少女はルチアにハンカチを押し付けて顔をそらした。悔しそうなのは、本当は黙っていようと思っていたからだ。どれほど父親がこのうつくしいひとに思い焦がれていたのかだなんてことは、わざわざ教えてあげるようなことではないはずだ。 「父さまもあんがい抜けているのね。口説き文句は本人にいわなくちゃだめじゃない」 燈台から船に戻ってくるたびの、父親の慌てぶりを見せてやりたいくらいだった。落ち込んだり、妙に浮かれたり、この船の船員だけでなく、この海の男たちのなかで、燈台の巫女の噂を知らぬものはもはやいないだろう。 銀鱗の海賊のこころを奪った、類稀な盗人として。 「やってきたら、この泥棒猫っていってやろうと思っていたのに……」 父親の愛を与えられながら、まるでそれにこそ怯えるようなルチアに、少女は毒気を抜かれていた。どちらかといえば、応援してやりたいような気持ちになっていたのだ。そもそも、こんなふうに健気に不安がるルチアをさらに踏みにじることができるほど、少女は狭量ではないつもりだ。父親の新しい愛人に反発を覚えないでいられるほど幼いわけではなく、だがやっとできた恋人を苛めるほどわがままなわけではない。 不甲斐ない父親を蹴ってあげようかしら、と呟きながらドレスのひだをもてあそぶ少女に、ルチアはそろりと手を伸ばし、小さな指を捕らえた。 「ありがとう」 微笑んでルチアが告げると、少女が照れたように頬を染めた。 手をつないだまま、ルチアは内緒話をするように少女に身体を寄せる。 「あの、もしよければ、わたしはあなたのことを、アニシアと呼んでもいいかしら」 「アニシア?」 「かわいい赤い花の名前なんだけど、アニーって呼んではいけないのでしょう?」 彼の過去の女性たちの名前を口にするのはルチアも苦しく、そして自分自身の名前を与えられなかった少女がかわいそうであるような気がしたのだ。 窺うようにルチアが少女を見ると、目を見開いて驚いていた赤茶色の髪を持つ少女が、すぐに嬉しそうに頷いた。目元を細めて笑うさまは恋しいひとによく似ている。 「いいわよ。そのかわり、あたしもルチアのことをルチアって呼ぶから。その呼び方って、父さまがつけたんでしょ?」 自慢していたもの、と答えるアニシアに、今度はルチアが顔を赤らめた。 燈台の巫女につけられる名前は代々、閃光を示すルクレツィアとだけで、愛称をもって呼ばれることなどなかった。ルチア、と呼ばれ髪を撫でられたときのことを思い出すだけで胸が高鳴る。たとえ儚く消えてしまう灯火になってしまったとしても、虚ろに燃え続けるよりは、ただひとりを照らす灯りになりたい。 その思いは、ルチアと呼ぶ声があったからこそ生まれた。 闇のなかに、扉のきしむ音が響いた。 天井にふたたびひかりが満ちる。 「ルチア」 呼ぶ声は慌てたようにかすれ、それでもルチアにはその声の主がわかった。 それは自分にとっての灯火。 そのひかりを目指して、どこまでも駆けてゆくと誓った。 愛しいひと。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。 |