□■ 捧げられしは白きリリウム―1― ■□ |
ひやりとした手が喉元を行き来する。 項に触れる手のもの慣れないくすぐったさに身をよじると、ユリヒの背後で髪を編んでいた友人のサロメから、頑是無い子供に対するような軽い叱責が飛んできた。 「だめよ、ユリヒ。動かないで」 「でも……」 落ち着かずにもぞもぞと身体を揺らすユリヒに、常日頃から年長者らしい言い含めるような物言いをするサロメが黙っているわけもない。 「あのねえ、十八にもなって髪を結い上げていない娘なんて都にはひとりもいないのよ。あなただって綺麗にするのは好きでしょう? 神殿の床磨きもいいけれど、たまには自分を飾らなくちゃ」 話しながらもてきぱきと手を動かすサロメによって、ユリヒのほとんど白に近い金の髪は、都で流行の首筋を露にした形にまとめられた。風に揺れるリボンは薄い水色のレースで、ユリヒの瞳の色と合わせられている。 「ほらね、ユリヒに似合うと思ったのよ。あなたもこんなところにこもっていないで、もっと都に降りておいでなさいよ。ちょうどいま西域から隊商の一座が来ていて、面白い芝居をしたり新しい絹織物を見せてくれたりしているのよ」 これもそこで買ったの、とリボンでまとめ上げた髪型の出来映えを右左と眺め、誇らしげに微笑みながらサロメはユリヒの解れ毛を整えた。そのサロメの髪には、水色のリボンよりもさらに高価な、ルビーでスグリの実を模した黄金の髪飾りが添えられている。 都の裕福な商人の娘であるサロメと違い、神殿に仕えるユリヒには自由になるお金がほとんどなかった。リボンの代価さえ払えないユリヒは、面映さと恥ずかしさを隠してそつとうつむく。自分で刺繍した、シロツメクサとクローバーの紋様程度しか飾りのない、質素な淡い灰色のスカートをユリヒは撫でた。 「私がいないと、羊の番をするものがいなくなるわ」 「一日くらい良いじゃない。羊が草を食べるのと同じように、私たちがショコラを飲んだりイチジクのパイを食べたりすることも大切だと思うわ。勤めを少し休んだくらいで、慈悲深きいと高きところにいらっしゃるお方がお怒りになるはずがないわよ」 陽気で屈託のないサロメにしては珍しく、いと高きところにいらっしゃるお方、ともったいぶった呼び方をするのは、神殿の主たる都の王を指したものだ。王とは神そのものであり、その気高さゆえに神殿の奥深くに籠もりひとまえには姿を現さない。そしてまたひとびともその姿を見てはならない。ただ神の傍近くに仕える司祭の一族だけが王の世話をし、実際の都の執政は代々の宰相の家系が取り仕切っていた。 司祭の一族ではなかったが、神殿で暮らすユリヒの仕事は王のために縫い物をすることだった。王の衣装に必ずつけられる、雪の結晶をさらに複雑化したような都の紋章を刺繍するのは、手際の良いユリヒであっても何日かそれにかかりきりになる。贖罪の祭りのための儀式が昨日から始まっており、儀式があけて王がまとう衣装へのそれが、まだ仕上がっていないことをユリヒは思い出した。 「昨日まで私、熱を出して寝込んでいて刺繍が終わっていないの。そのほかの神殿の御勤めもほとんど代わってもらっていたから、少しは働かないといけないわ」 「なあに、寝込んでいたならそれこそお休みをもらわないと、また体調を崩すにきまっているわ。あなたは真面目すぎるのよ」 言いながらサロメはすでにそれが決定されたことであるかのように、ユリヒを立ちあがらせようと腕を引いた。我侭に近い強引さを持つサロメにユリヒは表情を曇らせる。 ひとからなにかに誘われることの少ないユリヒは、それを断ることにもなれていなかった。どういえばサロメの気分を害することなく断ることができるのか、思案してもとっさに良いいいわけなどそう幾つも出てくるものでもない。 関係がないというように、あたりで草を食む羊たちはのどかなものだ。 ユリヒとて年頃の若い娘である。神殿にその身体と精神を捧げているといっても、美しい装いや趣向の雅な芝居には興味が惹かれる。それを躊躇するのは、なにも乏しい銀貨のせいだけではなかった。 困ったように口篭るユリヒの様子にはたと気付いたのか、サロメが突然大きな声でああと納得がいったように叫んだ。 「あのね、もし都での道が心配なら私が手を引いて歩くわ。大丈夫よ、今度ははぐれないように、しっかりと手をつなぐから」 「そんな……あのときのことなら私のほうこそごめんなさい」 以前、同じように断りきれずに連れ出された都にて、ユリヒはサロメとはぐれてしまっていた。もちろんユリヒも幼子ではない。ひとに場所を尋ねもしたし、サロメという女性を知るひとを求めて捜し歩いた。結局、はぐれてしまったサロメと出会うことはできず、日暮れても帰らないユリヒを迎えにきた神殿の司祭に連れて帰ってもらったのだ。必死にサロメを捜したものの、それが願うほどに成果を得られなかったのには、ユリヒが神殿で暮らす原因の一端が関係する。 ユリヒは膝に置いていた両手をきゅっと強く握ると、左手の手のひらにあるやわらかな毬の感触を確かめた。 「サロメの気持ちはありがたいのだけど、やはり迷惑になると思うの」 毬の中心には丸く細工した貝殻があり、そのなかには水晶で作った鈴が入れ込まれている。毬糸の端は左手の薬指に結ばれ、転がして鳴る鈴の音色を聞くことで道の距離や凹凸をユリヒは測っていた。この毬の音色を聞き取れるくらいに静かで、人通りの少ないところでなくては、ユリヒは歩くことができない。 「目の見えない私がいたら、サロメも気にしてしまって楽しめないでしょうし。サロメに気をつかわれるばかりだと、私も心苦しいわ」 ほんのりと浮かべた笑みは愛らしいもので、その盲目を匂わせる悲痛さはない。 「それに私、神殿にいるのも好きなの」 まだぼんやりと視力のあった六歳のときから暮らしている神殿は、その造りの簡素でこじんまりとしたところから、敷石の数や柱の傷の配置のすべてを記憶している。ユリヒにとってはそれこそ、目を閉じていても容易に歩ける場所だ。 神殿のある山裾から都へは一本道であり、ゆるやかな勾配とゆたかな緑は羊の放牧にうってつけのものだった。ユリヒはほとんど毎日、道の半ばまで羊を連れて歩き、日暮れ前には神殿に帰るという生活をしている。ユリヒにとっては甘いショコラよりもヤギの乳、砂糖漬けイチジクのパイよりも羊のスープのほうにこそ親しみと安らぎがあるのだ。 「サロメが都の話をしてくれるだけで私はとても嬉しいわ。こうしてせっかくリボンを買ってきてもらっても、私にはなんのお返しもできないし。だから、本当に気にしないで」 申し訳ない気持ちでユリヒが言うと、サロメがやや呆れたようにため息をついた。 「あなたってばどうしてそう強情なのかしら。甘いお菓子をあげても喜ばないし、綺麗な髪飾りにも遠慮するし、芝居に誘っても断るし。どうしたらもっと気軽に私と遊んでくれるのかしらね」 悪戯めいた調子でなじるサロメの拗ねた声が耳を撫でるなか、ふと、ユリヒは嗅ぎなれた甘い香りがあたりに漂うのを感じた。品種ごとの差異はあれ、粘りをもったそれは包み込むように濃厚なもので、わずかに吸い込むだけでも胸苦しさを覚える。香りに絡めとられるという感覚があるなら、これをおいてほかになかった。 首を巡らし、その香りに向かってユリヒは小さく呼びかける。 「ヨハネ」 「え……?」 そのひとが近づいてきていることにまったく気づいていなかったのだろうサロメが、驚いたように顔を上げる。そしてその姿を目に捉えると、サロメはそれまで掴んでいたユリヒの手をあっさりと放り出し、ヨハネへと軽やかに駆け寄っていった。 「こんにちは、ヨハネ」 声も身体も弾ませて、サロメは可愛らしくヨハネに微笑む。 あのひとが司祭の家系でさえなければ、絶対にうちのお店を継いでもらうのに、というのがサロメの口癖だった。サロメが山に来るのはユリヒのためばかりではなく、むしろヨハネに会うことが目的なのだ。 「新しい髪飾りを買ったのだけど、似合っているかヨハネに見て欲しいの」 甘えるように言うサロメの向こうで、ヨハネがどんな表情をしているのかはユリヒにはわからない。もっとも、ヨハネがどんな顔立ちなのかさえユリヒは判ぜなかった。ただうっとりとサロメが話す言葉を繋ぎ合わせて想像するだけだ。 光沢のある青みがかった灰色の髪をしていて、ユニコーンが人間の姿になったらきっとあのひとのようになるわ、とか、どんな黄昏の紫も朝露を含んだ菫もあのひとの瞳のまえには色あせて思えるといった賛美が、幼いころにぼんやりと見た少年の姿に重なる。 いつまでもひとりで座り込んでいるわけにもいかず、ユリヒはゆっくりと腰を上げると、嬉しそうなサロメとヨハネのそばに行くべく歩を踏み出した。 しかしあと数歩、というところで草の根か硬い小石かがユリヒのか細いつま先を浚い、ユリヒの身体がぐらりとよろめく。 「あ……っ」 倒れこむ仄かな叫び声はしかし、ヨハネの胸へと吸い込まれた。 神殿に仕える祭司であるのに、ヨハネの身体には敏捷さを秘めたしなやかな筋肉がついている。ユリヒの身体を力強く支えたそれが、ヨハネだけが特異に持つものなのか、それとも世の男性という生き物がそういうものなのか、ユリヒには判断がつかない。六歳のときに神殿に捧げられてから、身近にいてユリヒを支えてくれたのはヨハネだけだったのだ。 ユリヒを抱きとめた長い腕からはそれまで抱えていた百合の花がこぼれ、ユリヒはヨハネの腕のなかでその残り香に包まれた。背に添えられたヨハネの手は控えめに華奢な肩を撫で、もう一方の手で窺うように額の前髪を払われる。労わりと心配のこもった指先が壊れ物を扱うように頬をすべり、その感覚を追うまえに長い指はユリヒから離れていった。 見えぬ目で見上げると、ヨハネは腕を解いてユリヒの指に触れる。 語りかけてきたそれにユリヒは首を振った。 「私がなにを怒るの?」 ユリヒが盲目であるように、ヨハネもまた声をもたない。ユリヒが神殿に仕えることになるよりもさきに祭司として神殿にいたヨハネのそれがいつからなのか、なぜなのかをユリヒは聞き得ない。知っているのは独特のやり方で意志を伝えてくるその指の動きだけだった。人差し指を撫でる、中指のさきで円を描く、繊細な指の動きを理解できるのがユリヒだけであるからか、ヨハネがそうして意志を伝えてくるのもユリヒに対してだけである。 「せっかくのお花を散らしてしまったのは私のせいだし。私はこの香りがあるだけで幸せだもの。いつも、私が臥せるたびに摘んできてくれてありがとう」 三日ほどまえから今日の明け方まで、ユリヒは熱を出して臥せっていた。普段はとてもそっけない、無愛想なヨハネが、ユリヒが寝込んだときにはひどく優しくなる。ユリヒの体調がほんの少しでも悪いとわかると、すべての仕事をユリヒから取り上げ、床からちらと起き上がり炊事場に向かうことすら許さない。そして退屈を持て余したユリヒのために、日ごとさまざまな百合の花束を届けたりもするのだ。 匂いの強い百合を選ぶのは、視力が完全に奪われることになった、意識を失うほどの高熱を発した十歳のとき、ユリヒが目覚めたあとに、百合の香りがこちらの世に引き寄せてくれたような気がすると言ったからだ。薔薇を持ってきたときにその棘でユリヒが指を傷つけて以来、ヨハネは薔薇だけは絶対に神殿に持ち込まない。 ただ百合の香りだけが、ヨハネの優しさの証明だった。 微笑めば、ヨハネのまわりの空気が仄かにやわらいだことが感じられた。だがそれも、ユリヒが次の言葉を紡ぐまでのあいだである。 「もう元気になったから心配しないで。サロメにも悪いわ」 そうユリヒが言った瞬間、つながれていた指先が怒りをもって払われた。 「ヨハネ……?」 突然示された怒りに、ユリヒは戸惑って指をさまよわせた。 こうして振り払われてしまえば、ユリヒとヨハネとの距離はあまりにも遠いものだった。ユリヒはヨハネの姿を追いすがることができず、ヨハネはユリヒを呼ばうことができない。 自分のなにがそんなにもヨハネを苛立たせてしまうのかわからないユリヒは、ただ悲しくなって顔を伏せた。うつむく癖があるのは、自分がどんな表情をしているのか確かめようがないからだ。いつも笑顔でいられれば誇らしく顔をあげて生きていけるが、困惑や悲哀を漂わせるだけなら、それを他人に見せるべきではないとユリヒは思っていた。見えないユリヒだからこそ、見えるひとへ見せるものを選びがちだった。 気持ちを悟られないようにうなだれたユリヒの背に、サロメの声がかかる。 「ユリヒ、もしよければ、本当に私は構わないから、今夜は都に降りてきてうちに泊まる?」 「サロメ……」 友人の申し出はありがたく、心引かれるものがあった。 だが、それに返答をするまえに、今しがた振り払われた手がヨハネによって掴まれる。 ぐいと引き寄せられれば、ユリヒに選択の余地はない。 「ごめんなさい、サロメ。今日は神殿に帰るわ。またなにかあれば話しにきてね」 足早に歩くヨハネに負けない早口でユリヒは言った。引きずるようにユリヒを連れていくヨハネのまわりを羊たちが取り巻き、後を追いかけてぞろぞろとついて来る。 めええ、と間延びした鳴き声のあいだに、どこか冷ややかな声が聞こえた。 「いつまでもこんなところにいても仕方ないのに。……ばかなユリヒ」 サロメのその呟きはほんとうに風にまぎれるほどに小さなもので、ユリヒはそれが自分の聞き間違いであるかのように思った。問い返そうとサロメを振り向こうとしたとき、腕を掴むヨハネの力が増した。 「ヨハネ?」 いつもならば、無言でいてもその気持ちがおぼろげながらもわかるものなのに、このときのヨハネの力強さは、まるで心に踏み込むことを拒否するようなかたくなさがあった。同時に、ユリヒに後ろを振り返らせまいとする怯えも。 ヨハネの怯えに気を取られているうちに、サロメの姿はすぐに遠ざかっていった。 こうなればユリヒには、繋がれる手の痛みだけが残される。 わけもわからずヨハネに導かれるまま歩くユリヒは、腕の痛みではなく、その胸に付けられた傷の痛みに息をつめ、ヨハネに気づかれぬよう瞳を潤ませた。優しさと残酷さを気まぐれに与え、ユリヒの意志などどうでもいいというような振る舞いをするヨハネに連れられて歩く自分の存在が惨めだった。 「痛いわ、ヨハネ」 か細い訴えは当然の如く無視され、ユリヒは静かに頬を濡らした。 つかの間の自由はすぐに摘み取られてしまうものでしかない。これでは羊たちと同じようなものだ。羊飼いに追い立てられて、決められた道を迷いながら歩く。その迷いにさえ羊飼いは呆れ、嘲る。しかしユリヒの定めが羊とともにあるのも仕方のないことであった。 今さらだれも口にはしないが、はっきりと言葉にすれば、ユリヒは神殿へ捧げられた供物だった。しきたりと重圧がユリヒを羊の代わりにしたのだ。六年ごとに行われる贖罪の祭りのあと、その家でもっとも新しく生まれたものを神殿に捧げる決まりゆえに、都のひとびとは羊かヤギのような家畜を飼う。そしてユリヒの家でも、その他の家と同じように生まれたばかりの羊がいた。贖罪の祭りのあけるほんの一日前に盗まれるまでは。 ほかの町から移住してきて間もないユリヒの一家が都に瑕疵なく溶け込むためには、都のしきたりを守るほかなかった。厳格な律法学者であった父は無言のままにユリヒを神殿に捧げ、気弱な母はこれが誇らしいことであるかのようにユリヒを諭した。自分たちの暮らしのために、そのときすでに視力が落ち始め、働き手として十分ではないユリヒを手放したのだ。 両親の暮らす都は、ほんの半時歩けば辿り着くような近さにありながら、ユリヒにとっては遥かに遠いところにある。 山から吹く強い風にあおられた赤土を含んだ砂がわずかばかり舞い上がり、日暮れを示す宵の明星を覆い隠すようにして都へと流れていった。 記憶のなかの砂煙る都が、翳り虚ろうかのようにゆらりと揺れる。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。 |