□■ 闇に燈る ■□


 滴り落ちるは血のごとく紅き雫。
 雫が封じるは難解な文字で綴られた、権威高き教会の機密である。
 だがそれを見たウルトビーズの脳裏には、記憶の底に押し込めたはずの、絹と繻子に包まれて眠る過去の追憶が浮かんでいた。
 宵闇の瑠璃草色の瞳を俯けて瞬くと、炎に溶かされ封書の口に血のように溜まる赤黒き蝋から、ぎこちなくウルトビーズは視線をそらす。やわらかに押さえつけられるような鈍い痛みが四肢に呼び覚まされていた。
 豪奢な襞つきの上着に身を包み、貝殻を模した砂糖菓子を摘んでいた、甘くゆるやかな日々は幻にすぎない。その裏に隠された、王子と呼ばれていたころの思い出はどれもが苦く重苦しく、ふとした折に胸にうちに過ってはウルトビーズを悩ませる。
 痛みを痛みで誤魔化すように、組んでいた腕の皮膚に強い力で爪をたてた。
 幾たびも季節を超え、遥かに距離を置いても、未だにそれらから逃れられぬ己を意識するたび、艶やかな銀髪に囲まれた精悍な表情が憂いを帯びて歪みを見せる。
 不機嫌に眉を寄せたウルトビーズは、身体を預けていた飾り暖炉の縁から身を起こし、過去を追い払うように頭を振った。
 そして声を発するために乾いた唇をなめる。
「おい」
「なんだいバルトフォラス」
 ウルトビーズが低い声で呼びかけたこの部屋の主は、決裁を行っていた書類から顔をあげると、にこにこと眼を細めて小首を傾げた。ウルトビーズの機嫌などかけらも気にしたふうもない。
「もしかして暇かな」
 教会の最高位である法王の称号を持つそのひとは、年齢と心情を読み取りにくくさせる眼鏡を思案げに指で押し上げる。何度会ってもウルトビーズはこの壮年の男が苦手だった。すべてを見透かされているような感覚は、初めて会ったときから居心地の悪さとともに感じている。
 実際、王子としての公称であるウルトビーズという名前を最初に告げたとき、その名前は止めたほうがいいといって、勝手にバルトフォラスという名前までつけられていた。
 海賊として日頃は船に生き、時折はこうして報酬と引き換えに依頼を果たす傭兵じみた真似をして何年にもなるが、元は王子であったことを指摘するようなものなどこれまでだれもいなかったのだ。恐ろしく情報通であることと、察しのよさがあるのは間違いない。
 その抜け目なさを知らなければ、とても自分と同じ年頃の息子がいるとは思えない若々しい容貌の法王を、ウルトビーズは胡散臭く眼をすがめて睨み付ける。
「おれがいま暇かどうかなんてわざわざ聞かなくともわかるだろう」
 自分の不安定な気持ちが、思索にふけるしかすることのないほどひとを待たせたままの、この男のせいだと考えれば、どうとしても苛立ちをぶつけてやりたい思いにかられた。
「おれがさっきからどれくらいここに立っていると思う」
 苛立つままにすごんで見せたが、全知全能の神の代行者は、手にした羽根筆をくるくると陽気にまわしながら、思い返すように視線を遠くへと飛ばしていた。
「どれくらい、ねえ。ええとぼくが書類を五つと手紙を三つ書き終えて、胡桃に蜂蜜を絡めてチョコレートで固めたお菓子を食べようとしたら、きみが全部食べてしまっていたのに文句も言わずに、なんとかまた手紙を二つ書いたあいだかなあ」
 何年前のことだろうときっちりと寸分違わず覚えているくせに、法王がわざと迷うような様子をしたのは、その言葉のなかに含まれる一点を、しつこく言い募りたかったからなのは明らかだ。
「そんなに甘いものが好きだったとは知らなかったな」
 恐ろしく美味しかったチョコレートを気がつけば食べつくしてしまっていたことはあえて謝らず、ウルトビーズはからかうように笑った。
 その途端、法王は日頃の穏やかな表情からは想像もできないほどにきりきりと眉を吊り上げて険しい顔をし、子供じみた様子で拳を握り締めると怒りをあらわしてふるわせる。
「あのねえ。あのお菓子はとっておきのものなんだよ。ぼくだって一週間は仕事をさぼらないと出してもらえないんだから」
「つまりあれはあんたにまっとうに仕事をさせるための餌だったってわけか。一週間も仕事をさぼっておいてなにを偉そうに」
「仕事はちゃんといまやっているよ。たいへんなんだよ、ためにためた書類に眼をとおして間違いなく決裁するの」
「だからこんなにおれを待たせてもいいってわけか」
 自分の行いは棚にあげて胸をはる法王にウルトビーズが呆れて肩をおとす。
 さすがに己の行動を反省したのか、法王が多少は声を落ち着かせ、それでも拗ねたように唇を尖らせて最初の問いかけを繰り返した。
「だから聞いたでしょ。もしかして暇かって」
「少し考えればわかるだろう。することもなく放っておかれて、あんたの書類に手を出すわけにはいかないんだから、目の前にあった珍しい菓子を食うぐらいしか暇をつぶす手だてがなかったんだよ」
「そうかな」
「そうなんだよ」
 おれは悪くないぞと、両手を書類のうずたかくつまれた法王の机に叩きつけると、その態度が気にいらなかったのか、法王の眼鏡の奥の瞳が冷ややかに細められた。ともすると幼い子供のような所作ばかりが目に付く法王だが、冷酷な表情をすればひどく人間ばなれした威圧感を漂わせる。
「君のね、今の言葉が間違いなく流動性のある思想というものの積み重なる過去の事実の一端をあらわしているとしても、時間の配分とそれに対する価値観というものは個人の判断によるものだし、意思の疎通というのは語る言葉なしにはありえないものだよ。お菓子の件については君が主張する原因と結果に関連性がかりに認められるとしても、たんにバルトフォラスの性質が食い意地がはっているだけっていう場合があるからね。君の意見は却下」
「…………」
「つまりバルトフォラスがなにを考えているのかなんて、ぼくにはわからないってことさ」
 まくし立てるように一気に言い切ったあとの微笑みほど恐ろしいものはない。
「おれにはあんたの考えていることのほうがわかりにくいと思うけどな……」
 せめてもの嫌味に呟けば、それさえも確実に聞き取った法王がにっこりとした笑顔はそのままに、常にはない素早い動きで羽根筆をウルトビーズの頬ぎりぎりに投げつけた。
「おい!」
 あぶないだろうと怒鳴りつけたが、法王の顔に悪びれたところはまったくなかった。
「あああ、バルトフォラスが下手に動くから外したじゃないか」
 ばか、とまで罵られてはウルトビーズも不愉快になる。
「いきなり羽根筆を投げつけるやつがいるか。癇癪を起こすならもう少しひとに迷惑をかけないかたちでこっそりやれ」
「ひどいな、バルトフォラスはぼくが感情の抑え方もしらない、だれかれかまわず当り散らす性質だと思っているわけ。バルトフォラスだからこそ投げたのに、友達がいがないよ」
「いつからおれとあんたが友達になったんだよ」
「いま一緒に遊んでいるじゃないか。だってこの羽根筆はぼくの遊び道具だもの。知らないの、投げ矢のゲーム」
「ああ?」
 ウルトビーズが後ろを振り返れば、そこにはまぎれもなく点数の書かれた的があり、その中心から少し外れたところにさきほどの羽根が突き刺さっていた。
「まぎらわしいまねを……」
 そうはいいつつ、法王の行動のまぎらわしさがわざと行われたものであることもウルトビーズにはわかっている。そもそもが気を抜けば刃を交え命を奪い合うことも辞さない間柄であるのだ。友人だというならば、なにも言わずにものを投げつけるまねが許されるわけがない。
 そう、どう取り繕い、仲の良いまねをしても、所詮は友人同士などにはなりえない。
 教会の法王は海賊たちにとっては憎むべき敵である。
 今は昔、海賊たちの絆の証であり至宝であったひかりを奪い、だれもが金銭とひきかえに享受できる品物へと堕とした教会を、海賊たちは積年のあいだ恨んでいる。
 海賊と呼ばれる群衆のうち、ウルトビーズが身を寄せるエルシダルという一団は、もともとが地上の権力争いから逃れた海軍の一族を祖とする。だがエルシダルが誇りとするのはその生まれではなく、彼らを最初に統率していた総帥ヘルムートのことだ。一時は海賊の王とさえ名乗ったエルシダルの初代船長は、ひかり輝けるふたつとない宝を手にしていたという。その秘宝こそが海賊の王の証であり、海賊たちを束ねる絆となっていたというのだ。
 教会から至宝を取り戻すことを願わない海賊はいない。
 いくあてのない自分を拾い、居場所を与えてくれたエルシダルの当時の船長に、ウルトビーズが至宝を渡してやりたいと思うようになったのはずいぶんと前のことだ。
 そして忍び込んだ教会で、法王であるこの男に発見されてしまったのが縁で今にいたる。
「契約の話をしよう」
 気持ちを切り替え、ウルトビーズは真正面から法王を見た。
「おれはあんたの依頼どおり、草原の民のあいだのいさかいを平定させた。あんたの息子の嫁さんは無事に息子のところに戻った。あとはあんたから報酬をもらうだけだ」
 ウルトビーズは利き手である右手を、武器をふるうための右手を、無防備な信頼のままにゆっくりとした動作で差し出した。
「契約どおり、教会の至宝をわたしてくれ」
 法王の視線が、ウルトビーズの手に注がれる。
 まるで奇妙なものを見るように。
「バルトフォラスは……」
 珍しく言いよどみ、それから納得したというように法王がうなずく。
「こちらの地方の出身じゃないんだもんね。教会の至宝がどんなものかちゃんと知らなくてもしかたないか。今の海賊仲間のうちできちんとわかっているものがどれくらいいるかもあやしいものだしね」
「あんたが約束どおりわたしてくれれば、すぐにでも知れる」
 わたすつもりがないのかと詰め寄れば、ウルトビーズの気迫をそらすように法王が自身の指を飾り暖炉に向けた。
「あいにくだけど、いますぐにぼくがどうこうできるものじゃなくてね。届けさせるからその暖炉の奥の隠し通路を、途中の別れ道で左にいったところから出て中庭で待っていてもらえるかな」
「隠し通路を左だな」
「そう。右にいくと、たぶんお腹はすかせてないけれどひどく酔った獣に襲われるかもしれないから気をつけて」
「あんた、これから教会の至宝を海賊に奪われるってのに、やけに楽しそうだな」
 たばかるつもりなのかとウルトビーズが睨んでも、法王の楽しげな様子はかわらない。
「ぼくとしては楽しいというか、困ったなって感じなんだけど。だって、教会の大事な宝が海賊に奪われるのを黙ってみているんだよ。困るよねえ。でも、君自身が至宝を手に入れたいと、強く、強く願えば、それは真実、君のものになると思うんだ。君に運命をかえるつもりがあるならね」
 謎かけのような言葉にウルトビーズは顔をしかめる。
 教会の至宝は、海賊王から盗まれたひかり輝ける宝ではないのか。
 いぶかしむウルトビーズに、法王はさらに笑みを深くする。
「その、教会の至宝というのはね、本当は、だれもが持っているものなんだよ。だれかを幸せにすることが神の奇跡だというなら、だれしもがだれかの神になれるということだよね。けれどやっぱり、ひとはすべてのひとを幸せにすることができなくて、だからこそ神の奇跡にすがりたくなるんだ」
 深くなった笑みはしだいに法王のこころの奥底をあらわすように、ひどく苦い、己を責めるようなものになる。
「教会の至宝は、教会の権威のためのものじゃない。欲しいと思うひとがいるなら、そのひとのそばにあるほうがいいんだ。バルトフォラスが、だれかのためじゃなくて、自分のために求めてくれるならいいと思う」
 うながす法王の手に押され、不審を募らせながらもウルトビーズはいわれるままに暖炉に足を向ける。不思議と、法王が至宝をわたす気がないとは思えなかった。
「そうだ」
 ウルトビーズは歩き出してからふと思い出して振り返った。
「あんた祖父さんになったぞ」
 草原の内乱で奪われた法王の息子の妻を救ったウルトビーズのその言葉に、法王の顔が晴れやかに輝きだす。肯定をしめしてうなずいてやれば、情の濃い皺が法王の目じりによった。
「君はいま、ぼくに神さまを見せてくれたよ」
 君にも神さまのご加護がありますように。
 そう微笑んだ法王の顔はまぶしく、まるでウルトビーズにはそのまったき信頼と感謝こそが、教会の至宝であるように思えた。
 その輝きだけを信じて、隠し通路を歩ききれればよかった。
 しかし、通路の闇はこころの闇を写すように、ウルトビーズをふたたび過去の思い出へと誘う。
 自分のために死んだひとを、どうしても忘れられないのだ。
 塔から身を投げたかのひとの、その血をこの眼で見たわけではない。
 控えめに微笑み、躊躇いながらも伸ばしてくれた白い手の、思い出が汚されてしまったわけでない。
 ただ、どうにかして止められなかったのだろうかという苦い思いが、過去から抜け出せぬウルトビーズを折にふれて襲うのだ。
 かのひとと同じハシバミ色の瞳を見たときや、野苺のような唇の乙女を胸に抱いた夜は、失われてしまったそれらを思い返し、己の罪に胸がかき乱される。
『ふたりの母を殺し、ふたりの妻を亡くし、ふたりの娘に看取られる』
 この呪いとも言える予言をウルトビーズが恐れるようになったのは、思慕を抱いた若き義理の母が、塔から飛び降りたという訃報を聞いてからだ。かのひとを失いたくないと思ったからこそ国を捨ててきたというのに、まるで予言は逃れられない罠のごとく追いかけてくる。
 薄情だとは思うが、生みの母を亡くした感慨はあまりない。家柄だけでめあわされた妻が同じように亡くなったときも、当時己のこころのうちを占めていたのは義母のことだけだった。
 結果として娘への名づけにあらわれた無関心さに、今では申し訳なさが募る。あのころ、自分にとって意味のある女性の名前などたったひとつで、それ以外の名前を思いつくことができなかったのだ。大事だと思った女性たちの名前をすべてつけた、と娘には話したが、本当に大事だと思っていたひとの名前は軽々しく口にできるものではなかった。
 恋情を隠し逃げてきた自分を襲った義母の訃報に投げやりになりかけたとき、立ち直らせてくれたのが、国元から自分の痕跡をなくすために強引に連れ出してきた娘だったことは、ひどく皮肉なものだ。
 自分にはまだ守るべき手があるのだと、小さなその手で必死にすがりついてきた娘に、自分はいつ看取られることになるのだろうか、と考えることは悲しい。
 これ以上の苦しみを受け入れることはできない。
 運命に屈することはできない。
『ふたりの母を殺し、ふたりの妻を亡くし、ふたりの娘に看取られる』
 そんな呪いに屈することはできない。
 半ばまで成就したそれをおしとどめるためならば、もうだれも愛さないと誓うことはたやすいことだ。ウルトビーズはそうすることこそが運命をかえる手だてだと信じていた。
『君に運命をかえるつもりがあるなら、教会の至宝は真実、君のものになる』
 先ほどの法王の言葉がよみがえる。
「かえてやるさ、運命なんて」
 決意のままに足を踏み入れた中庭は溢れかえる色彩に輝き、生き生きとした花々にウルトビーズは微笑みかける。
 生きているものが好きだった。のびやかに荒々しいほどの力強さで生きているものがすきだった。逃げ出した先に海を選んだのは、海のもつ穏やかさと激しさが、罪を感じるこころにふさわしく思えたからだ。
 癒され、責められ、呪いと誓いは忘れることなくウルトビーズの胸に刻まれる。
 渦を描く海の荒波のごとく、形式などないようでいてその実緻密な理論のうえに、木々の葉は陽光を集めるべく四方へと広がっている。
 ミモザの枝の影もその枝ぶりをなぞり、大地にて影に触れる人物の足元まで隆々とのびていた。柳がごとくしなやかに細い立ち姿が緑のなかに浮かびあがる。
「だれだ……?」
 警戒気味に誰何すれば、知らぬうちにミモザの木の奥に立っていた少女の肩がひくりと上下する。この花園には不似合いなほどに、ひどく痩せて生気の薄い少女だった。いまにも消えうせてしまいそうな淡やかさは、ほんのひとときだけ咲いて散る花の精霊を思わせる。黒髪からのぞく小さな顔の、化粧けのない唇が開いた。
「あなたこそだれなの」
 か細い声はふるえて、さらにその儚げな印象を強める。
「あなたはロビニアスさまになにをしたの」
 悲壮なほど緊張を示しながら、少女の手には深海の青を思わす色合いの、うつくしくも古めかしい銃が握られていた。その銃口をウルトビーズに向けたまま、おそらく銃を手にしたことなどないだろう少女が、吸い込まれるような翡翠色の瞳で強くにらみつけてくる。
「答えなさい!」
 今にも倒れそうに青白い顔でふるえながらも、大事なもののために背筋をのばし、両足を踏みしめて立っている。その少女の様子に、ウルトビーズは最初に感じた印象が間違いであったことに気づいた。
 少女の長い黒髪といわず銃を掴むその細い指先や、足元にひっそりと固まる影からさえも、かたくななまでに強い意志が溢れている。身体の華奢さは抱きしめてしまえば壊してしまいそうなほどなのに、どれほど強く抱いても、けっして折れることはないだろう決意をうちに秘めている。
 惜しむらくは、その決意や覚悟といったたぐいの強い思いが、おそらく他人のためにしか存在していないことだろう。そうでなければ、少女の生気のなさに説明がつかない。自分自身に対する執着のなさがあらわれているのだ。
 よくよく見れば、その端正なつくりの顔立ちといい、均整のとれた体つきといい、肉付きの薄さは気になったが、ただの村娘にしては充分すぎるほどにうつくしい。恐れを隠そうと必死に見開く瞳が、甘くゆるやかに微笑めば、一国の王女にもまさるだろう。
「おれがロビニアスになにをしたって?」
 張り詰めた雰囲気のなか、ウルトビーズはおどけるように両手をあげた。
「それを聞いているのは私のほうだわ」
「あんなおっさん相手になにかするきになるかって」
「ロビニアスさまになんてことをいうの!」
 笑わせようとして叩いた軽口がさらに少女の機嫌を損ねたことを知り、ウルトビーズは困ったようにあごを撫でた。それでも気づかれぬようにゆっくりと少女に近づく。
「そういうことを聞きたかったんじゃないのか」
「ロビニアスさまにはちゃんと奥様もご子息もいらっしゃるのよ」
「ああ、知ってる。ちなみに先日孫もできたぞ」
「…………」
「知らなかっただろ」
 にやりと笑ってみせると、喜ばしい報せに一瞬、顔をゆるめた少女がふたたび表情をかたくする。
「失敗したかな」
 まいったな、と呟いたウルトビーズに、なにを、と少女が問いかけたときには、すでにウルトビーズの右手がのびていた。鋭い動きで銃の火皿を押さえるとそのまま上にねじりあげ、少女の動きを封じるために左手で身体を抱きしめる。
「やっぱり細すぎるな」
 さらうように抱き込んだ身体は片腕があまるほどに薄い。
 悠々とした動きで少女の手から銃を奪うと、少女のやわらかな胸の鼓動が激しく高鳴っているのに気づいた。細いながらも肌のきめこまやかさと白さは、あらわにのぞく喉もとから鎖骨のあたりで若々しく輝いている。
 視線を下ろせば、少女の翡翠色の瞳が銃を奪い取られた悔しさと身体の自由を奪われた恥ずかしさに潤んでいるのがわかった。その瞳のあやうげながらも頼りないさまにふと目を奪われる。
「せっかくだから、このままダンスでも踊ろうか」
 いつも女性を口説くときのように腰を押し付けて、華奢な身体を抱き上げるようにしてくるりと回ると、きゃあというあえかな悲鳴が少女の唇からもれた。
 かわいらしい、無垢な悲鳴だ。
 自分の指先をどこに置けばいいのか、さほど重くもない体重をどこにかければいいのか、そうした惑いが、少女のものなれなさを物語っている。
「からかいがすぎたか……」
 だれも愛さないと誓っているウルトビーズにしてみれば、割り切った付き合いのできない年若い少女は、摘んではならない可憐な花のようなものだ。熟れた実を食べることに罪悪はあまり感じなくても、まだ咲き始めの花を散らすようなまねはできない。
 愛することや愛されることにまだ希望があるのならば、自分のような男とは係わり合いを持たないほうがいいのだ。
 苦い思いでそう自嘲したウルトビーズは、抱き込んだときの強引さと同じだけ唐突に少女の身体を解放した。指先にのこる離れがたさにはあえて気づかぬふりをする。
 少女が驚いたように目を瞬いた。
「で、ロビニアスがどうした」
 少女が銃の扱いに慣れていない様子から考えると、銃はもともと少女のものではなく、この少女はロビニアスの使いということになる。ならば、この銃が教会の至宝ということだ。だが予想していたようなものとのあまりの違いに、ウルトビーズは眉根をよせて少女に問いかける。
 声をかけられた少女は、さらに一歩あとずさりウルトビーズから距離を置くと、両手を握りこんで胸に当てた。少しでも己の身を守ろうとするその所作に、ウルトビーズのほうが安心する。ひとの血に染まったことなどないだろう細い白い手で銃を持つなどという真似を、二度として欲しくはなかった。
「ロビニアスさまに……それを持って中庭に行きなさいと命じられたの。それは、ロビニアスさまにとってはすごく重要な意味を持つものなのよ。いままでだれにも触らせたことなんてないのに」
 少女の口ぶりから、やはりこの銃がただの武器ではないことは知れる。少女がそこで少しだけ表情を歪めて呟いた。
「あなたに渡して欲しいけど、もし私が身の危険を感じたら、そのときは私が使いなさいっていわれたわ」
「あのおっさんのいいそうなことだな。本来なら死ぬ気もないのにひとに銃口を向けるなんて許されないが、まあ見逃してやるさ」
 憮然とした顔でウルトビーズは言い、多少の疑問はあれやっと手にいれた財宝を懐にしまう。これをもって船にかえれば、いまだに自分をよそ者だと反発する一派も黙らざるをえないだろう。
「しかしこれが本当に海賊の絆になる宝なのか」
「あなた、海賊なの?」
「まあな」
 おびえさせてしまったようにも思えた少女が興味深げにそう言うのに、ウルトビーズはわずかに安堵して笑った。
「なにか聞きたいことでもあるのか」
 うながしてやれば、少女が頬を染めて逡巡しながらもこくりとうなずく。
「あのね、海賊さんっていうことは、あなたは海を見たことがあるのよね」
「海賊さんは海にいる盗賊だからな」
「海はどれくらい熱いのかしら?」
「海が、熱い?」
 冷たく逆巻く波や嵐を知るウルトビーズは、少女の夢見るようでありながらどこか真剣な顔つきに首をひねった。海が熱いかどうかをこれほど疑いなく口にするということは、この少女は海に触れたことがないということだ。この教会のすぐそばにこそ岸壁があるというのに。
「だれがそんなことをおまえに言ったんだ?」
 不審げな顔をする理由がわからないのか、少女のほうが怪訝そうな表情を見せる。
「寝るまえにお話をしてくれるばあやがいるの。おひさまが夜になるとなくなってしまうのは、海のほうが太陽よりも熱いから、海に触れた太陽を溶かしてしまうんだって。だから、塔から海に飛び降りようなんて考えは持ってはいけないって。私も溶けてしまうから」
「塔から飛び降りるだと」
 ウルトビーズの脳裏に血の色の赤が浮かび、その痛みを意識から逸らすべく拳を強く握り締めた。それでも確実に黒い影が身体を覆い鈍い痛みをもたらす。
「海が太陽よりも熱いだなんてばかな話を信じるまえに、さっさとその塔を壊してしまえ」
 怒りとともに荒々しく叫ぶと、その怒りを受けながすように少女の瞳が伏せられる。
「じゃあ、海が熱いという話は、私をあの塔に閉じ込めるためのうそなのね。どれほどおとぎ話めいていても、ほんとうにそうならいいのにと思っていたのに」
 沈んだ声がふるえているのに、ウルトビーズにも、少女が信じたかったのがその話そのものではなく、その話をしてくれた人物なのだということがわかる。
 だが、ウルトビーズが気になるのは、だれかに問われればすぐにばれてしまうような嘘をつくその人物の浅はかさよりも、少女がおかれている状況のほうだ。
「いつもは塔に閉じ込められているのか」
「ときおりロビニアスさまがこういうふうにこっそり中庭までは出してくださるわ」
「どうしてそんな暮らしをしなくてはならない」
 ウルトビーズが理解できない、と首をふると、少女が疑問を持つことのほうが理解できないというように微笑んだ。
「そういう運命だからよ」
「なんだと」
「そういう運命なの。しかたないのよ。私があの塔にいないとたくさんのひとが困るの。いつかだれかが私をあの塔からつれだしてくれるなんて、小さなころはぼんやりと思ったものだけど、いまはたとえそう言われても私のほうが断るわ」
 微笑みに曇りはまったくなく、少女が己のその運命と呼ばれるものを受け入れていることが明らかだった。少女のそうした従順なさまに、ウルトビーズの胸に不満がわきあがる。
「そんな生き方は苦痛じゃないのか」
「痛みや苦しみはだれしもが背負って生きるものだわ。私だけじゃないでしょう。私に与えられた役割が、塔で暮らすことなら私はそれを全うするわ」
 運命はかえられないの、そう動く唇を愕然とした思いでウルトビーズは見つめた。恐怖と憤りに瞳は燃え上がり、激しい感情に喉がふさがれたように荒い息がもれる。
塔に囚われた少女の囁くその言葉が、運命から逃れようと必死にあがく自分を追い落とそうとしているかのように思えた。
「私の命がつきるまで、私はあの塔にいるでしょう」
 運命は変えられる、そう信じたいウルトビーズの気持ちを揺らすほどの少女のかたくなな潔さに、ウルトビーズは抗うべくこわばる顔に笑みをのぼらせた。
「では聞こう。痛みや苦しみはだれしもがせおわねばならないものだとするならば、たとえば、ふたりの母を殺し、ふたりの妻を亡くし、ふたりの娘に看取られるという呪いを受けたものは、その呪いを受け入れるべきだというのか」
 青ざめた顔で笑うウルトビーズをどう思ったのか、少女が躊躇いつつもそろそろとウルトビーズに近づいてくる。寝巻きに近い少し時代がかった薄布の衣装をまとった少女は、神の御使いのごとく足先になにもはいておらず、ただそのレースのついた裾をふるわせた。
 睫毛の瞬きさえ数えることができるほどそばに来た少女が、無防備にもしなやかな腕をあげてウルトビーズの頬に触れる。
「それがあなたの苦しみなの?」
「……苦しむべきなら苦しみになるだろう」
 触れられた指先から伝わる慈しみに、不覚にもウルトビーズは嗚咽を漏らしそうになりそれを耐えて眉を寄せる。
「あなたのそれは呪いなんかじゃないわ」
 囁く声の優しさは、痛みを知るがゆえの甘さをまとう。そして言葉の強さは苦しみを受け入れたがゆえのゆるぎなさを持っていた。
「私は記憶のなかにお母さんというひとがいないわ。でも、お母さんがいないというひとはいないわね。あなたにはふたりもいるんでしょう。それに奥さんもふたり。娘さんもふたり。そのひとたちが死んでしまうのは、あなたにかけられた呪いのせいなんかじゃない。そのひとたちが人間として生まれた以上、いつか来る定めのためよ。だれもが自分の両親を自分より先に亡くすものでしょう。そしてみんなの半分が自分の伴侶を先に亡くすでしょう。そしてどれだけのひとが、自分の子供にちゃんと見守られながら、自分の天寿を全うできるかしら。あなたの苦しみは仕方のないことだわ。痛みや不安の深さを競うことはできないけれど、そうした不安をみんな抱えて生きているの」
 だからあなたのせいじゃないわ、と告げた少女の手が頬から離れてゆく。
 その手を追いすがって掴み、ウルトビーズはふたたび少女を腕に抱きこんだ。
 離してはいけないと、どうしてかそのとき強く思ったのだ。
「おまえが塔に囚われる理由はなんなんだ」
「言ったでしょう、私の、運命だからよ」
「おれにかけられた呪いが呪いじゃないなら、変えられない運命ではないというなら、おまえの運命だって変えられるはずだろう」
 運命はかえられない、そう言った唇でたやすくウルトビーズの運命を変えて見せた少女に、ウルトビーズはあざやかに世界が開けたような感覚をえる。ひとの言葉ひとつで、ひとの考え方ひとつで、呪いなどという不確かなものは消え失せるのだ。ならば同様に少女の運命も変わるべきではないのか。少女の運命が変わってこそ、ウルトビーズの呪いも解けたといえるのではないか。
「私は……塔から逃げられないわ」
 抱きこまれたまま、少女の瞳が絶望に歪められた。のびやかな考えをする少女のこころを縛るものがなんなのか、わからないままにウルトビーズは叱咤する。
「抵抗しろ」
「してる、わ」
 身じろぐ少女の身体をより強い力で抱きしめる。
「足りない」
「そんなの……」
「逆らうつもりならもっとはっきり自分の意思を表せ」
「これ以上、どうしたらいいの」
 あえぐように息を切らしながらか細く呟く少女の、いまにも涙のあふれそうな翡翠色の瞳を見つめ、ウルトビーズはその黒髪を優しく撫でた。
「逃げられないならさらってやる」
「なにを」
 突然のウルトビーズの言葉に、少女が呆然とした様子で抵抗を止める。
 折れそうに細い身体と甘い花の香りがウルトビーズの理性を揺らがせそうになるが、さらいたいのはその身体ではない。
 怯えさせないように、真実を織り交ぜた言葉を口にする。
「海賊の王には至上のひかりがそばにあるものなんだと思わないか」
「至上のひかり?」
「おれの地方の言葉では、それをルチアと呼ぶけどな」
 ふと思いついたそれは、翡翠色の瞳の少女によく似合った呼び名のように思えた。
 かつての海賊王の持ちえた至上のひかりがどんなものだったにしろ、ウルトビーズ自身にとっては、自分の暗く重い運命をかえる、その闇の導きとなる言葉を与えてくれたこの少女こそがひかりだった。
 そばにいて欲しいと素直に告げればよかったのかもしれないが、少女の思いも、自分の思いもまだ曖昧なまま、縛るようなことは口にしたくなかった。
『ふたりの母を殺し、ふたりの妻を亡くし、ふたりの娘に看取られる』
 その呪いを打ち破る力を、もっと強く信じられるまで。
 約束できるのは、運命をかえるということ。
 たとえそれがどれほどあやうくはかない望みだとしても。
「おれと賭けをしようか」
 少女の身体を解放し、指先にのこる離れがたさにウルトビーズは顔をゆがめた。
少女もまた、今度は驚くだけでなく、どこか居心地の悪そうな、不確かな不安を感じたかのように、己の身体を自身で抱きしめる。
大きく息を吐くと、ウルトビーズは少女をまっすぐに見つめた。
「おれを好きになればここからさらってやる」
 少女は表情に困惑を浮かべて呟いた。
「あなたなんて好きにならないわ」
「それでも、おれはおまえと賭けをする」
「どうして」
「運命は変えられると信じたいと思わないか」
「……」
「もう一度言う。おれを好きになればここからさらってやる」
 ウルトビーズから伸ばされた手を拒み、少女はその華奢な身をひるがえした。
「あなたなんて好きにならないわ」
 その声を、痛む胸に受け止めながら、それでもどこかウルトビーズはしあわせだった。
 闇に燈るひかりを見つけて。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。