□■ 燈代のルクレツィア [1] ■□


 故なくつく吐息などこの世にはありえず。
 ルクレツィアの唇からもれるそれもまた、詮なきことと知りつつこの世とこの身の上を嘆く悲愴の欠片の墓標がごとく。
 暮れゆくは陽、逝くはまた碑。
 予め定められた軌跡のままに沈み行く太陽をして逃れられぬ枷を思いつめ、やはりもれるため息に心情を括る。
「どうしたって変わらないのだわ」
 諦観に満ちた瞳の翳りは差し込むひかりの乏しさになおいっそう暗く、檳椰めいた漆黒の髪もまた世界を包み込む闇を具現する。
 ふと思い返せばルクレツィアは闇を怖がらない子供だった。身寄りのない、似たような境遇の子供たちが、夜が満ちるたび不安げに泣くのを、どこか不思議な思いで眺めていたものだ。当時はそれこそが、その後のおぞましい己の宿命を暗示していたのだとは気づきもせず。夜毎囁かれる恐ろしさに得心を覚えたのは、暗闇の持つ孤高の寂しさを真実、身に受けて知ってのちのことである。
 だが岸壁の塔へとひとり押し込められた今であっても、ルクレツィアは夜そのものを嫌うようにはなれない。寂しさや不安は夜のなかにあるのではなく、常に己のなかにある。
 だから怖がることなどなにもないのだ。
「昼が昼であるように夜もまた夜であるだけなのだから」
 つまりはいずれときが巡れば明け往くもの。
 その在り様が変わらぬかぎり、ルクレツィアのしがらみもまた失われずにありつづける。与えられる恩恵を享受するだけの、ただ恐れるだけのひとびとはそれを永劫と呼んでいた。
 ルクレツィアは葡萄蔓の装飾の繊細な鏡台に向かい、鏡に映る己の姿をぼんやりと眺める。それはすでに見飽きたもので、新たな感情をいまさら呼び起こすものではない。
 瞳の翡翠に生気はなく、肌も唇も乾いていて年頃の少女めいた華やかさに欠ける。ただ黒々と波打つほどに豊かな髪だけが見事なまでに艶めいており、背を這う長さのそれは荒れ狂う夜の海そのものの不吉さをまとい陽に当たらぬ白い頬と細い首を被っていた。
 黒髪はこの地方ではひどく珍しい。何も知らず、何も知らされずにいたころは、自分はそれゆえに捨てられたのだと安易なまでの愚かさで思い込んでいた。
 愚かさ、と判じた己にルクレツィアは苦笑する。自分には果たすべき役目があり、ただ漫然とそれを行えばひとびとに祝福を与えることができ、なおかつひとびとから尊崇されるのだ。求められていてなおこれ以上を望めば、それはいかばかりか強欲に過ぎる。たとえその故の真実を知らずとも。
 暮れゆく陽が薄紫に滲む雲をひきいて波間に溶ける。
 ルクレツィアは鏡台に置いた小さな白蝶貝の化粧箱をゆっくりと開いた。
 なかには、粗悪な鉱石のようにも禍々しい骨のようにも、あるいは一角獣の角か竜の爪のような神秘を帯びたもののようにも見える、半月をかたどった櫛がひそやかに封じられていた。
 ためらいにまばたきをひとつ。
 手を伸ばせばひやりと焼けるような冷たさが指先に伝わり、それはかすかな痛みとともに背筋を駆け上がる。
 とまどいにまばたきをふたつ。
 髪に触れさせれば眠りから覚めた櫛がぱちりと火花をはじく。
 ためらいもとまどいも、それはほんのひとときのことだ。
「だって、どうしたって変わらないもの」
 呟く声のか細い頼りなさにはあえて気づかぬふりをし、絹糸のようだと、まるで慰めのように褒めそやされる髪の艶と手触りだけを救いに櫛梳る。
 ぱしり、ぱち、と火のはぜる音が髪から立ち上り、幾度となく繰り返された儀式の完遂を告げ、陶酔さえ呼び起こす仄かな痺れと燃える感覚が首筋を掠めた。
 見慣れた姿が鏡に映る。
 上気した頬は薄紅に、翡翠の瞳はひかりに照らされて新緑の芳しさをも漂わす。
 そしてこれら変貌の起因たる髪の白々とした眩い光沢。
あますところなく丹念に梳られた黒々とした長い髪は、半月の櫛に込められたなにがしかのまじないにより淀みを剥ぎ取られ、ひとの身には本来与えられぬひかり、耐えられぬ温度を孕み傲然と燃え立っていた。
 漆黒から黄金に色を変えた髪がきらやかにあたりを払い、影さえも真珠めいた輝きへと変化をとげる。
 鏡のなかの自分を見つめ、ルクレツィアは故あるがゆえの重くさびたため息をつく。
 夜毎映る少女はまるで灯火。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。