□■ 燈代のルクレツィア [2] ■□


 朽ちる木蓮、ささめく沫雪、けぶる蛍火。
 切り立つ岸壁にあまた砕け散る波の花は瀕死の救いを求めて舞い上がる。
 ふわりふわとしたあえかにして脆弱なそれは朽ちる木蓮のごとく、ルクレツィアには決して触れられぬ遠き眼下の出来事だった。この世のままならなさを挙げればきりのないルクレツィアにとって、身近にあるものといえばわが身ひとつだけである。さりとてその唯一所有せし己が身体さえ、陽の落ちた夜には裏切るのだ。
 ひっそりと息を殺し沈黙を装う黒檀のような髪は、塔へと閉じ込められた六つのときより十年のあいだ、伸びゆくままに背に流されていた。その髪の楔のごとき重みは昼のみの幻想であり、熾き火燃ゆる夜の輝きこそがルクレツィアを束縛する。
 ルクレツィアはほんのりと発光する髪の一糸を指に絡め、ささめく沫雪のように溶ける白い焔を爪先ではじいた。燃えさかる髪を眩しいと感じることはあっても、その熱に傷つけられたことはない。
「いっそすべてを燃やし尽くしてしまう炎なら求められることもなかったのに」
 唇の端に刷かれた微笑は己にあてたもので、伏せた睫毛は白金の艶を帯びていた。
 すべてを燃やし尽くしてしまうことを本当に自分が望んでいるのか、求められて閉じ込められていることを苦痛に感じているのか、言葉として呟きつつルクレツィア自身にもそれは判じがたい。ひとびとに対する憤りやわが身によせる哀しみのような、捕らえてしまえば己を苛むだけの感情からはなるべく目をそらすようにしていた。無言のままに紡がれる吐息だけが他ならず心情を綴り、ルクレツィアにわかっているのは自分が灯火であるがゆえにひとびとから求められているということだけだった。
 たやすく手にすることの出来る炎は怖れられもせずただの道具として使役される。
 その扱いやすさこそがルクレツィアの境遇を定めていた。
 りり、と部屋にひとつだけある扉の向こうで鈴の音が鳴る。ルクレツィアの部屋の壁は夜空を模した深く重い藍色に塗りつぶされており、その閉塞を補うように丸天井の中心には色硝子が華やかな薔薇の意匠に装飾されていた。
 遠慮がちに開いた扉の向こうで蝋燭の火が揺れる。ルクレツィアの燃える髪のために、夜であっても燭台のいらぬ部屋のなかと違い、石造りの螺旋階段を歩くには必要なものだ。そしてそれは闇を照らす囚人たるルクレツィアを監視する、看守たるひとの毎夜の訪いを告げるものだった。
 だが現れたのはいつものおっとりとしてふくよかな中年の女ではなく、ルクレツィアよりいくらか年かさの頤の細い女性である。
「巫女さま、なにか不都合はございませんか。ご入り用のものがありましたらすぐにお持ちいたしますが」
「マデレナはどうしたの」
 詰問するような口調になりつつ、声音には変異への怯えが漂う。母のようにいつも自分のことを案じ世話してくれる女性の、突然の不在に胸が騒いだ。少しでもすごしやすいようにと設えられた清潔な敷布や薄物の衣装、退屈を紛らわすための優美な細工の双六や豪奢な装丁の絵本、戯れにねだり与えられた、山査子を透かし描いた硝子の杯のなかの尾の長い青い魚。それらはすべてマデレナの気づかいによる。
「どうしてマデレナが来ないの。なにかあったの」
「今日から巫女さまのお世話はわたくしがいたします。夜着のお召し物はこちらでよろしいでしょうか」
 ルクレツィアの強い眼差しを避けるように深々とこうべを垂れた女性はアニシアと名のり、鏡台の椅子に腰掛けるルクレツィアの夜着を厳かな所作で腕に捧げ持っていた。これはいつもならマデレナが届けてくれるものだ。瞳の色にあわせた淡緑の薄絹はルクレツィアのお気に入りであり、マデレナはそれにこっそりと紙に包んだ薄荷味の飴玉を忍ばせてくれていた。
 そうした取り計らいが、塔の看守としてのマデレナの立場を考えれば、決して良いことにはならないとルクレツィアもわかっていた。甘すぎるという批判も受けていただろう。けれどこんなふうに突然姿を消してしまうことになるとは思ってもいなかった。
「どうして教えてくれないの。マデレナになにかあったのか心配しているだけなのよ」
「巫女さまが気にされることではありません」
 問いかけの答えが返らないことには慣れている。それでもそっけない言葉で退けられれば翡翠の瞳に悔しさが滲んだ。
 ルクレツィアが燈台の巫女と呼ばれ、塔へと迎えられたその日から今にいたるまで、なぜ夜に半月の櫛をとおせば黒髪が炎と化すのかそのわけを教えてはもらえず、あるいは知るものがいないのか問いにはただ巫女の血をひくからだと言われつづけた。
 教会の管理する燈台への幽閉に選択の余地はなく、慰めは両親の存在をはからずも知ることができたことだけだった。孤児院での火事でひとり生き残り、呆然とするルクレツィアを燈台へと連れてきた枢機卿から、母が先代の巫女であり同じような暮らしをしていたと告げられたのだ。そのあとそこかしこで忌々しげに噂されることに耳をすまし、父がその母を塔から連れ去ったために長く燈台の巫女が不在であり、ルクレツィアの存在も知られていなかったというあらましを知ったのだった。
「アニシア、せめてマデレナがどうしているのかだけでも教えて。なにか病気や怪我をしているようなら私からもお見舞いを言いたいの」
 ルクレツィアは華奢な肩にかかる金糸の束を払い、渡された夜着へと着替えることで従順さを示し懸命に言い募った。
 眩しげに目を細めたアニシアはそれでもやはり深々と礼をするだけで、部屋に入ってきたときと変わらぬ態度のままに出て行った。
 着替えたばかりの薄布を掴む。
 俯けばけぶる蛍火めいた淡い白が頬を包んだ。
 燈台は闇を切り裂き海を照らす。
 だがひとびとが帰る地平と思い定めて向かう燈台のルクレツィアのこころだけが、暗く闇に覆われていた。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。