□■ 燈代のルクレツィア [25] ■□


 夜の闇は漆黒に似た濃紺に輝き、海の底は漆黒に似た緑陰に沈む。
 ルクレツィアにとって長らく漆黒とは、塔に囚われてひとり暮らす夜の闇の孤独を現すものであり、無力な昼の己の姿のなかで、もっとも忌むべきところであった。
 しかしいま、見上げる空は散りばめられた星ぼしの明けゆく輝きに満ち、眼下の海はそれを映して穏やかな風の模様を織り成している。それらは不吉で沈鬱な漆黒などと目をそらすことなどできない、みごとなうつくしさで色変わりし存在していた。
世界の果てはどこまでも遠く、夜の闇は世界を包む母なる睫毛だ。影をなし、ひかりを呼びこむ先触れである。
 ルクレツィアは陽光に照らし出されたその世界を、獣の背に騎乗しながら長い髪をなびかせて見ていた。
 ハビエルがルクレツィアの逃亡を促したとして、略式ながらも法王に捕えられたと聞けば、暖かな白い花の咲く森に、いつまでもいるわけにはいかなかった。
 いそぎハビエルのもとへ戻らねばならないと言ったルクレツィアを、刻陽と名づけた獣は黙って背に乗せてくれたのだ。しかしこんなにも長く、意識のある状態で獣を乗りこなしたことなど、当然ルクレツィアにはなかった。
 足元を風がさらう不確かさに落ち着かず、知らぬうちに詰めていた息をはく。
「……だからこんなにもどきどきするのかしら」
「どうした、ルクレツィア。疲れたか」
 呟いた言葉に思いがけず言葉が返り、ルクレツィアは顔を起こすとぎこちなく首をふった。声をかけたクラウスが一瞬、妙な顔をしたものの、そうか、といって再び前を向く。
 クラウスの声を聞いた瞬間、せっかく吐いた息をまた止めてしまい、ルクレツィアは苦しさに小さく咳をもらした。こほりと落とされたそれはかすかに熱をはらむ。
 胸のざわめきが、もらした息や咳の欠片に混じりそうで、ルクレツィアはどうしても緊張をとくことができなかった。
 獣に乗るのも慣れないことだったが、クラウスの背中に抱きついて乗っているのだ。こんなにも身体をそばに近づけていて、なにも思わないほどルクレツィアとて幼くはない。
 遠慮がちに腕を回すと、危ないからといってしっかりつかまるように身体を引き寄せられた。うとうとと眠りそうになれば、頬に触れるクラウスの背中の硬さに目がさえる。
「ハビエルなら心配しなくても大丈夫だ、あいつがそうかんたんに罠にかけられるわけがない」
 ルクレツィアの落ち着かなさを、捕まえられたと聞いたハビエルを心配しているためだと勘違いしたクラウスの言葉に、ルクレツィアはこくりと頷いて広い背中に伝えた。
 ハビエルに対する心配はもちろんしていたが、ハビエルが本当にルクレツィアの手がなければならないほど困ったことなど、一度としてないことがこれまでだった。ハビエルが捕えられたと聞いても、それさえハビエルの計略であるような気がする。それほどまでに抜け目なく、敵ばかりの教会のなかで、ハビエルはルクレツィアを導いてくれていたのだ。
刻陽がぐぐ、とうなり声をあげる。
「わかっただろ。はやくハビエルのもとへ向かえ」
 ルクレツィアに向けるのとは違う、少し冷たいような声でクラウスが刻陽に命じた。
 だがルクレツィアには、刻陽こそがルクレツィアの隠した言葉を聞き取ったのを感じ、黙ったまま頬を染める。
 鈍感なやつめ、と唸ったように聞こえたのだ。
 だがクラウスが刻陽の言葉を理解できないのも無理はない。
そもそも、刻陽はクラウスを背中に乗せることを拒んでいたのだ。それを、今の主であるルクレツィアともとの主である炎の女王エウニーヴェが説き伏せて、ハビエルを助けなければと思うルクレツィアを無事に教会に送り返すには、刻陽とクラウスの協力なしには出来ない、と納得させたのだ。
クラウスの相棒であり盟友である緋粋がもとの姿にもどり、これまでのようにクラウスを背中に乗せて運ぶことができない以上、獣は刻陽しかいない。刻陽が、どれほどルクレツィアは自分が守ると唸ってみても、ルクレツィアを塔からさらったのが刻陽である事実は変わらず、クラウスが連れ帰るかたちをとるべきなのは明らかだ。
 だがクラウスにしてみても刻陽は祖父の仇であり、これまで旅を続けてきた理由の相手である。ヘルムートに対してはたとえ姿がひとに変わってもこれまでのごとく馴染み接することができても、刻陽に対しすぐに全面的に許し、信頼することはできないだろう。
そしてまた刻陽もクラウスには頭を下げるつもりはないらしく、背中に乗るのは許しても、勝手に乗れとばかりに顔を背けていた。
 仲良くして欲しいと思っても、それはルクレツィアの勝手な期待だ。
 それに、もしクラウスが、自分よりも刻陽と仲良くなってしまえば、ひどく嫌な気分になるだろうということもわかっている。
 ハビエルやヘルムートのクラウスへの接し方を見るに、クラウスは彼らにひどく慕われている。きっとすぐに、刻陽とも和解するに違いなかった。クラウスの怜悧な印象の顔立ちからこぼれる微笑みは、不思議とこころを和らげる作用があるのだ。近寄りがたい雰囲気はその性質の真摯さからで、打ち解けてしまえば懸命に親身になるところもあたたかい。
 ハビエルよりもクラウスと仲良くなるにはどうしたらいいのか、長年旅をともにしてきたヘルムートよりも頼りにしてもらうにはどうすればいいのか。
考え出せば自分とクラウスの距離は、どれほど背中にすがって近づいても遠いような気がした。自分はクラウスのことをなにも知らない。その辛さも痛みも。そしてクラウスもまたルクレツィアのことを知っているとはいえないだろう。というより、少しでも知りたいと思ってくれているのかどうかさえわからない。
 この寂しさは嫉妬というのだと、ルクレツィアは痛む胸で思いを深める。
 どうしてこれほどまでに胸が高鳴るのか、理由など本当はわかっていた。
 そのとき、かくり、と刻陽が降下を始めた。
「刻陽、ハビエルを捕えた法王を見つけたら食ってもいいぞ」
 がう、と刻陽が命じたクラウスに答える。
 その声は、気安く名前を呼ぶな、と人間みたいな不味いものを食っていられるか、である。もちろん、ルクレツィアは余計な口を挟むことなく、衝撃に耐えてクラウスの背中にしがみついた。
 この旅が終われば、自分はどうなるのだろうという不安がルクレツィアの頭をかすめる。
 氷の鏡があれば、その鏡に込められた炎の記憶だけで、燈台のひかりとなりえるはずだ。ルクレツィアの手には、塔からさらわれるときに持っていた櫛ならず、鏡が握られている。この鏡を用いることは、ルクレツィアが燈台の巫女から解放されることを意味していた。
 しかしルクレツィアは、巫女でなくなった自分が、どうやって生きていくのか、想像すらできていなかった。アニシアのように、ハビエルの世話をする侍女か修道女として教会に残ることになるのだろうか。クラウスとともに、このまま旅を続けたいという希望はあったが、それはルクレツィアひとりの勝手な願いだ。
 クラウスのそばにいたいと、告げてもいいのだろうか。
 なにもせず、ただ塔で祈りを捧げていたときには感じられなかった不安を堪え、ルクレツィアは静かに唇をかむ。
 気高い貴婦人のごとき風情でほっそりとした姿で立つ薔薇硝子の塔が視界に入った。
 クラウスと緋粋によって壊され直された薔薇硝子も、ふたたび刻陽によってこなごなに砕かれ、塔の部屋のなかにおしみなく陽光が降り注いでいる。ルクレツィアが外からじっくりと燈台を見るのは初めてだった。
 堅牢な作りながら佇まいは優美であり、天辺の薔薇硝子に向かって姿隠しと守りの文言が細かく刻まれている。それらはおそらく、炎の女王の御子を捜索する獣の目くらましとして彫りこまれ、緋粋とクラウスが打ち破ったことにより、幾らか緩みが生じたのだろう。だからこそ、ルクレツィアの呼びかけが刻陽に届いたのだと言える。
「法王の部屋はあそこだ……」
 ルクレツィアよりもよほど教会の構造に詳しいクラウスが、塔の西がわに位置する区画を指差した。窓にかけられたカーテンは真紅であり、掛け金には教会の紋章が浮き彫りにされている。掲げられた教句は、汝が罪は許されり、であった。
「許しなら存分に神に願うがいいさ」
 そう断じたクラウスの指し示すまま、法王の部屋の窓を突き破り刻陽は教会に侵入した。
 迷いなくばりりと音をたてて硝子は割れる。しかしそこには呪いが掛けられていたらしく、目に見えぬ鎖が刻陽の身体を捕えた。
「かかったな、愚かな獣め!」
 豪奢な部屋のなかで、金と真紅の衣装をまとった厳しい顔の法王が高笑いをした。
「ハビエルさま!」
 法王の足元には、縛られてぐったりと横たわるハビエルの姿がある。
「獣もこの忌々しい若造もあわせて断罪してくれるわ」
「貴様ハビエルになにをした」
 もがく刻陽のうえで、クラウスが怒りに燃えて法王をにらみつける。
「なにをした、とは心外な。罪を犯した輩を粛清するは教会の役目に他ならんだろう。この男は禁忌に触れたのだ。おとなしくしていればよいものを教会の火を奪おうなどと愚かな考えを持ちおって。先の法王ロビニアスのような、燈台の火を絶やさぬ方法を見つけたなどと言って巫女を逃がした罪人の弟子など、もっと早くに放逐すべきだったのだ」
 憎憎しげにロビニアスの名前を吐き捨てた法王に、クラウスの目が冷ややかに細められる。剣を抜いてもこの距離では届かない。しかしクラウスの持つ銃はふたつあった。ロビニアスから受け継いだ、仇を討つと誓った銃と、ハビエルから与えられた、その身を守るための銃だ。クラウスがハビエルから銃を継ぎ、ハビエルの聖騎士であることは法王も知っていようが、希少なる銃を二丁も持つものがいるとは思ってもいないだろう。
 その、いまだ弾丸のこもるハビエルの銃を、クラウスはすばやく構えた。そして絡められた鎖をほどこうともがく刻陽のうえで両手を放し、無駄のない動きでその銃を撃つ。
「方法があるのにそれを見過ごしていたおまえのほうが愚かだろうよ」
 ぐあ、と法王が呻いたときには、刻陽を縛っていた鎖が緩まり、刻陽の牙がそれを断ち切っていた。
 クラウスはすぐさまぐらりと傾いだ身体を立て直し、ルクレツィアを抱えて受身をとりながら部屋に転がり込む。
 刻陽は躊躇いなくその牙を部屋の主へと振り下ろした。
 うろたえた叫び声が人間のものだったような気がしたのはわずかな間で、その瞬間を、ルクレツィアは目にすることはなかった。
 クラウスの胸のなかから顔を出すことが出来たのは、やわらかな声が響いてからだ。
「ごくろうさま、クラウス、ルクレツィア」
「ハビエルさま……!」
 駆け出すようにクラウスの腕から離れ、養い親にルクレツィアは抱きついた。
「ご無事を信じていました」
 それでも、括られた手首の紐を解こうとハビエルに触れた指先が緊張と恐れをあらわして小刻みにふるえる。
「ルクレツィアが無事でよかったよ。どうやらクラウスは依頼をきちんとはたしてくれているようだしね。それにそちらの獣どのもありがとう。そのままそのひとは生け捕りにしてくれるかい」
 刻陽の唸る声にそちらを振り返ったルクレツィアは、刻陽に組み敷かれ、クラウスの手によって縛り上げられた法王の姿を見た。そういえば、初めてハビエルさまの部屋でクラウスに会ったときも、クラウスは侍女を縛り上げていたわ、とぼんやりとそのときのことを思い出す。すいぶんと昔のことのような気がしたが、あれはついこのあいだのことなのだ。あのときの自分のクラウスへの態度を思い出せば、恥ずかしさにルクレツィアは叫び声をあげてしまいそうになり顔を伏せる。
「そのひと付きだった侍女はこちらがわに付いているし、不正の証拠なんていくらでもあるんだから、ぼくのほうからこのあとで断罪してしまうよ、じっくりたっぷり恥ずかしいめにあってもらおう」
 抱きついたルクレツィアを見せびらかすようにクラウスに向かって微笑んだハビエルだが、抱きついたままのルクレツィアは、悔しそうな表情をしてみせたクラウスを見ることはなかった。
 そのルクレツィアの手から、ハビエルが氷の鏡を厳かなしぐさで受け取る。
「氷の女王の鏡だね」
 火花の零れる鏡を手にし、ハビエルは慈しむ所作でルクレツィアの黒髪を撫でる。
「これからは、きみは塔に閉じこもる必要はない」
 ルクレツィアははっきりといわれたその言葉に顔色をなくす。やはりここにはもう居場所がないのかと、翡翠色の瞳を伏せた。
 そうしたルクレツィアに、囚われの身であったために少しだけ痩せたハビエルが優しく言葉をかける。
「海の向こうに、きみのお父さんとお母さんがいるから、そこまでクラウスに連れて行ってもらいなさい。そしてそのあとで、この教会がルクレツィアの家だと思うなら、戻ってきてかまわないよ。もちろん、だれかのお嫁さんになって、だれかの隣が自分の家だと思ってもいい。きみの望むまま、精一杯、生きて欲しい。それがぼくの、燈台の巫女ではないルクレツィアに願う、ただひとつのことだよ」
「ハビエルさま……」
 どう答えたらよいのかわからず涙を浮かべたルクレツィアに、ハビエルが面白がるように悪戯めいた微笑を唇に湛えた。
 その視界のすみで、法王の部屋であるはずなのにいつもどおりに扉を開けてアニシアがお茶の準備を始めるのが見える。あまりにも動じていないアニシアの様子に、ルクレツィアは、自分がハビエルをわかっているつもりで、まだまだなのだということを思い知った。
ルクレツィアの視線に気づいたアニシアが、ルクレツィアに対してやわらかな眼差しを注ぐ。そして当たり前のようにアニシアはお茶をハビエルに渡し、ハビエルはそれを微笑み返しながら受け取った。
「ルクレツィア、きみのお父さんに会ったらね、あなたの娘さんはふたりとも幸せになります、と伝えてくれるかい。きっと、面白いことがおこるから」
 内緒話をするように唇を寄せるハビエルから、ぐいと強い力でルクレツィアは引き離された。つかまれた腕を見ると、クラウスが苦い顔ですぐそばに立っている。
「ハビエルの無事はもう充分に確かめただろ。さっさと行くぞ。刻陽にそう言えよ」
「ク、クラウス……」
 引きずるようにクラウスに連れられ、呆然としているあいだにルクレツィアの身体はまた獣のうえにあった。
 今度はクラウスと刻陽のあいだに挟まれるようにして抱きかかえられている。
「わざわざ親父に殴られにいくんだから、少しは俺に優しくしろよ」
 聞かせるつもりのない独り言らしかったが、クラウスの呟きにルクレツィアは頬を染める。
「一緒に……行ってくれるの……」
「ハビエルと約束してるしな。それにルクレツィアが言ったんだろう。俺を守ってくれるって。俺のそばにいないと、俺のことは守れないんじゃないか」
 そばにいてもいいのだというクラウスの言葉に、ルクレツィアはただ黙って頷いた。なにか言おうとすれば、苦しいほどに胸に渦巻く思いのすべてを吐き出さなければ満足できないような気がしたのだ。
 陽光のなかに舞い上がる刻陽の背の上、ルクレツィアは朝日とそれに照らし出される世界をいとおしく思った。
 そしてそれ以上に、クラウスを思う気持ちは晴れやかに輝かしく、どこまでも広がっていく。
 髪は漆黒に染まっていたが、たとえ目に見える炎を失ったとしても、胸に宿す炎は絶えることはない。
 燈台の巫女の役目を終えて。
 賭して灯すは恋の灯火。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。