□■ 燈代のルクレツィア [24] ■□ |
芙蓉の花びらがゆるやかに目を惹いて散り落ちる。 しかし、白き芙蓉の花びらに思えたそれが、舞い広がったルクレツィアの黄金の髪の毛だと気づいた瞬間、クラウスは目の前で牙をむく獣の腹を蹴り上げた。 「ルクレツィア!」 ルクレツィアが、クラウス自身も通った凍れる松の枝でできた洞窟に引き込まれたのは、緋粋とともに森に到着したときに視界に入っていた。立ちふさがる闇の獣に剣をふるいつつ、氷の女王の居城へ繋がる螺旋の道を、ルクレツィアも同じように歩いているだろうと思っていたのだ。 だが、いま、氷の塔は天上に突き抜けて燃え上がり溶け始めている。 そして崩れ落ちる氷の欠片の合間に、黄金の髪を広げて投げ出されたルクレツィアの姿があった。あの高さから落ちれば人間の身体などたやすく壊れてしまう。 「緋粋、ルクレツィアを」 いつもそばに控えている黄金の獣を振り向く。 しかし見慣れていたはずの獣の毛並みが、氷の塔の溶けるひかりに共鳴するように、ざわざわと上下に波立って燃え上がっているのにクラウスは目を見張った。海原が夕日に照らされてきらめくように形なき輝きが長い毛に走り、滝が落ちるようにすさまじい勢いでそれが伸びる。 それでもクラウスの命を果たそうとしてか、緋粋がひらりと空に舞い上がった。 「頼む!」 たとえ緋粋の身になにが起きていようとクラウスにいえるのはそれだけだった。 信頼することしかできないのだ。 緋粋が氷の塔へ向かったのを追うように、闇の獣もそちらに身をひるがえす。そしてクラウスはそれを追って走り出した。 人間であることがもどかしいと、いまほど思ったことはなかった。 するどい牙があれば獣に手こずることなく打ち倒せただろう。跳躍と疾走に秀でた筋肉と四本の足を持つ獣であれば、自分でいち早く助けに迎えただろう。 しかし、緋粋が救いに行ってくれているなら、自分にできることは、二本の足で走り、この二本の腕で彼女を抱きしめてあげることだと思う。 それしかできないのだ。否、それだけができればいいのだ。 ルクレツィアが無事でありさえすれば。 走るうちに、緋粋の伸びた黄金の毛の先に追いついた。 ひかりで出来た道にも見えるそれに足先をかけると、激しい水流に巻き込まれるように身体が傾ぐ。走るよりも早く、ひかりの道のさきに引き寄せられた。 目に見えぬ力を掴むように思い切り手を伸ばすと、クラウスの身体は緋粋の背に騎乗する形になる。さらに足に力を入れると、風のごとく疾走する緋粋の背中を超えて、崩れ落ちる氷の塔のただなかにいた。 散り落ちる白芙蓉の花びらのごときルクレツィアの身体を腕に抱きとめる。 「どうしてこんな無茶をするんだ」 ルクレツィアが望んで塔から飛びおりたわけではないのは確かだ。しかし溶け落ちた塔の瓦礫のなかで少女らしいやわらかな身体を抱くと、クラウスの口からは罵声が零れた。 だが閉じられたルクレツィアの瞼は瞬くこともなく、頬にかかる黄金の髪はまるで命の灯火が燃え尽きるように、しだいに漆黒に染まっていった。 「ルクレツィア……」 抱きとめた瞬間はクラウスの腕を焼いた白い火花がおとなしやかに黙り込む。 燃え上がる炎がその身体から失われてしまえば、ルクレツィアの華奢な身体は折れた雪柳の枝のようにか細く軽い。微笑に唇をほどけば、甘く愛らしく見えるルクレツィアのそれも、わずかなりとも動かなかった。 「ばかな……こんな……彼女は……なにもしてない、なにも与えられてない、なにもしてあげられてないのに!」 これ以上、自分の手からなにも零れていかないようにと、祖父がなくなったときにクラウスは祈った。 祈りは誓いでもあり、クラウスの生きる糧でもあった。 願いはただ、ロビニアスの仇を討つこと。 それが果たされるまではと、盟友である緋粋とともに己を戒めてきた。 仇を討つこと以外、望まないと。 物言わぬルクレツィアを前に、クラウスは、どうしてルクレツィアを塔から助けたいと強く思うようになったのかを思い返した。氷の女王とまみえたとき、ルクレツィアのこころが女王のように凍りつくまえに、使命から解放してあげなければならないと感じたせいだ。 それはクラウスのこころが、すでに氷の女王のごとく、縛られてしまっていたからだ。 ロビニアスの死後、ひとつの願いだけを胸に、それ以外に気をとられないよう、目を瞑るように生きていた。 世界にはもっと見るべきものがあるのに、憎しみだけに目をこらしていた。 クラウスの冷ややかに青い瞳が、胸のうちの苦しみを写し、ロビニアスが死んでしまって以来の悲しみに歪む。 「ルクレツィア……」 青い瞳は、復讐を誓った緋粋との契約の証。 自分の命を懸けて仇をとると願った証だ。 しかしいま、もしも願いが叶うなら、復讐のためになにかの命を奪うことよりも、これから幸福をたくさん味わうはずだった少女の命を救うために、自分の命を懸けたかった。 命をかけるに値する願いとはなにか、ようやく見つけたそれがふたたび叶わない事実に、クラウスは冷たいルクレツィアの身体をきつく抱きしめた。 自分の愚かしさと無力さに、凍りついた青い瞳が解け、瞳に押さえ込まれていた感情が涙となって溢れ出る。 「きみはもっと微笑むべきだ」 クラウスの頬を、静かな涙が伝って落ちた。 ロビニアスと別れ、緋粋と出会ってからは決して流したことのない涙だった。 ほつり、ほつ、と零れた涙はしかし、驚くべきことに大地に落ちるとすぐさま魔力を帯びた青白い結晶となって凍りつく。 砕かれたダイアモンドの欠片めいたそれらはしだいに収束し、首ごと落ちた牡丹のように形をなした。ひそやかなひかりを湛えた満月を思わせるそれは銀細工のようにも、氷を削って作られたようにも見える、手のひらに収まる程度の鏡となる。 小さく丸いそれに写るクラウスの瞳は、緋粋との契約がはがれた証を示して、クラウス本来の瞳の色である漆黒へと色合いを変えていた。 涙から作られたそれがなんであるのか、驚愕しつつもわからないクラウスではない。 「だから、か……たしかに俺の姿は愚かしいものに見えただろうな。すでに慈悲はあたえられている。女王の言葉に偽りはなかった……」 俯くクラウスにも、さきほどから自分のそばにたつ人影がだれであるのかがわかっていた。ルクレツィアを抱いたまま、クラウスはきつとその相手をにらむ。 「女王よ。だが俺は言ったはずだ。慈悲を与えてほしいのは俺ではなく、自分の身を犠牲に捧げる少女にだと。ルクレツィアが死んでしまえば、あなたの鏡をいまさら与えられても、なんの意味もないんだ」 どうしてこんなことをするのか、詰問する口調でクラウスは鏡や己同様、本来の姿を取り戻したかつての氷の女王にきつい視線を向けた。 「あなたにその黄金の炎をまとう資格があるとは思えない!」 女王の銀の髪はいま、それまでルクレツィアがまとっていた黄金に輝き、虚ろに翳っていた瞳もまた、澄んだ翡翠色になっていた。 「クラウス、待て」 女王が口を開こうとしたのを遮り、緋粋が野生の馬のたてがみのごとく荒々しく伸びきった黄金の毛のなかから、低い声を発した。 「エウニーヴェを責めてくれるな」 「緋粋?」 クラウスが黄金の獣に目をやると、その横に立っていた炎の女王が、くず折れるように緋粋の身体に取りすがった。氷の女王であったときにはけっしてしなかっただろうしぐさだ。妖艶たる美女が身体を投げ出して獣にすがる。 「ヘルムート……」 情感のこもった声で涙ながらに呼びかけられた緋粋の背に、たおやかな女王の手が触れた途端、緋粋の身体を覆っていた黄金の毛皮が、ずるりと服を脱ぎ捨てるように剥ぎ取られた。 鮮やかな変身を遂げ、女王の身体を支えながら、ゆっくりと毛皮を脱いで立ちあがったのは、どこから見ても気品にあふれた王子然とした男である。 「ひさしぶりに元の姿に戻ったな……」 確かめるように、緋粋の毛皮のなかから現れた男が、短めの自分の髪の毛を撫でた。緋粋であったときの名残は、その髪の色の金だけである。瞳は燃える生粋の緋色ではなく、静かな湖水の青をたたえていた。 女王の涙を胸に吸い取るように、ヘルムートと呼ばれた男は女王の肩を抱き寄せて髪に口付ける。 「緋粋、おまえ……人間だったのか」 かすれる声でクラウスが訊ねれば、緋粋であった男は長身のクラウスを追い越す背丈から視線をあわせ、ほんの少し淋しげな、それでいて不敵な笑みをして見せた。 「クラウスはわたしをいったいなんだと思っていたんだ。最初から獣でしかなかったものが、ああもたやすく言葉が話せたら、人間としての矜持が崩れてしまうだろうに」 「減らず口をたたく獣はたしかに希少だけどな……」 どこかからかうような、けれど低く落ち着いた口調は確かに緋粋のもので、クラウスはその変わってしまった盟友の姿を眺め見た。獣であったときと変わらない逞しさを氷の大気のなかにさらすヘルムートに、無言で自分の外套を取るように促す。 「ヘルムート、というのか」 「そう呼べとはいわないがな、許せ、とは願おう」 すがりつく女王を抱くヘルムートと、力ないルクレツィアを抱えたクラウスは、しばし見つめあった。 「なにを許せ、と……おまえは言うんだ」 「クラウス」 「許せないたったひとつのために、俺たちは盟友になったんじゃないのか」 どこまで騙せば気がすむのかと、激昂するままクラウスはヘルムートに言葉をたたきつけた。緋粋が、話さないでいることがいくつもあることは知っていた。だが、それでも信頼してきた相手なのだ。姿が変わってしまったことが衝撃なのではなく、そのこころさえ自分は見極めきれていなかったのかという悔しさがクラウスの気持ちを追い詰めた。 「説明しろ。どうしておまえがあんな姿でいたのか。どうしてルクレツィアを巻き込んだのか。そこにいる獣がおとなしいのはどうしてなんだ」 同じ思いで旅をしていると思っていたのに、緋粋からつき放されたようでクラウスは苛々と唇を噛んだ。先ほどまで牙を見せていた闇の獣でさえ、今は影のごとくひっそりと頭をたれている。 「クラウス」 「話せよ、ヘルムート」 ごまかす事こそ許さないと、クラウスはヘルムートの黄金の髪をにらみ付けた。それでもヘルムートと呼び方をかえたことが、クラウスなりの真摯な優しさである。 緊張をほぐすようにヘルムートの息がもれた。 「まず紹介させてくれるか。炎の女王ことエウニーヴェ、わたしの妻だ」 「見ればわかる……似合いだよ」 素直にそう言えば、ヘルムートの瞳が嬉しそうにやわらかく微笑んだ。そこでエウニーヴェがヘルムートの胸から顔を起こし、泣きはらした顔のまま唇をひらく。 「責めるならば……わらわを責めよ。すべてはヘルムートを信じきれなんだわらわのせいぞ。娘がさらわれ、探しにいったしもべとヘルムートが帰らぬあいだ、もしや別の女のもとにいったのではないか、あるいは死んでしまったのではないかと案じ、ついには辛さから目をそらし、こころを凍らせたのだから」 ふるえる唇から紡がれるエウニーヴェの、ヘルムートへの思いを聞きながら、クラウスは気持ちを落ち着かせようと拳をにぎりしめた。 「そうやって、あんたが自分ひとりだけが苦しいと嘆いて塔に閉じこもっているあいだ、ルクレツィアは、同じように旅に出たまま帰らない夫や恋人を思う女たちの慰めとして、燈台に閉じ込められていたんだ」 それがわかっているのかと、言いかけたクラウスを、ヘルムートが首をふって静止する。そして安心させるように、エウニーヴェの頬をいとおしげに撫でた。 「わたしたちは……教会の一派にずっと追われていたんだ。炎を操るエウニーヴェを一時は魔女とそしり忌み嫌い、だがその力が本物だと知ると、信仰の対象になりえると考えた教会はエウニーヴェを捕らえようとした。ひとびとがすがる象徴として。この森に身を隠して、どうにかやっていけると思ったんだが」 教会の獣使いに追われ、ヘルムートとエウニーヴェのあいだに生まれた嬰児はさらわれた。あるいは教会はそれをこそ狙っていたのかも知れない。それならばせめてエウニーヴェだけでも守らなければと思ったヘルムートが、エウニーヴェの隠れる塔に、獣がけっして入れないよう呪いをかけた。偉大な魔女であるエウニーヴェから貸し与えられた、魔力の込められた鏡を使えば、ヘルムートにも呪いを操ることができたのだ。 「誤算は教会の獣使いがひどく優秀だったということだな。エウニーヴェの使い魔である闇の獣、湖白を操って娘をさらい、わたしが獣を追い払う呪いをかけたなら、湖白の魔力の源である爪を剥いでそれを用い、わたしに呪いをかけた。同じ獣になるようにとな。わたしは、自分でかけた呪いのために、エウニーヴェから遠ざけられた」 獣になってからしばらくは意識がなかった、とヘルムートは苦しげにもらした。 四本の足に慣れ、獣としての英気を養ううちに、獣としての自分しかこの世にはいないような気がしていたのだと。 「そうして出会ったのがロビニアスだ。根気よくというか、気長な気まぐれでわたしに語りかけ、わたしに人としての言葉と意思を思い出させてくれた」 息をついたヘルムートが、闇色の獣に視線をうつす。 「湖白は、教会の獣使いが死ぬまで、教会のために尽くした。エウニーヴェか、あるいは娘が願えば呪縛から逃れられただろうが、エウニーヴェのいる塔にはわたしの呪いのせいで入れない。娘は教会によって隠されている。獣使いが死んだあと、湖白はそれまでの苛立ちをぶつけるように、教会に連なるものを狙いだしたんだ」 「ヘルムートは、闇の獣の恋人を奪った、と言っていなかったか。だから憎まれていると」 真剣な面持ちで聞いていたクラウスだが、ふと思いついて問いかけを口にする。 それに対し、それまでおとなしくエウニーヴェの足元に蹲っていた闇の獣が、喉の奥で笑うような声をたてた。もちろん、獣でしかないそれが話すことはない。 問いかけに答えたのは視線をそらすように俯いたヘルムートだ。 「わたしが……エウニーヴェの魔力を写し取った鏡をつかい、獣が塔に入れぬように呪いをかけたのは、わたしと出会うまえからエウニーヴェに仕えている、湖白への嫉妬がなかったとはいえないからな。わたしは本来、なんの魔力もない人間にすぎない。長命である魔女の力を持つエウニーヴェと、ともに生きられる時間は限られている」 いつも余裕めいた態度と口調を崩さぬ緋粋、ヘルムートの、思いがけぬその弱さに、何気なく訊ねたクラウスのほうが顔をしかめた。 クラウス自身、さきほど塔から落ちてくるルクレツィアを助けようとして、もし自分が魔力持つ獣であったなら、風よりも早く空をかけてルクレツィアを救うことができるだろうと思ったのだ。 力のない自分に焦れて、選択を誤ってしまうことから引き起こされる苦痛は、ヘルムートだけではなく、クラウスもいままさに感じていた。 腕のなかのルクレツィアの瞼が開き、その翡翠色の瞳を見ることができれば、どれほど喜ばしいだろう。 苛立ちをぶつけても、どうすることもできないのだと知りつつ、笑顔を向ける気には到底ならない、クラウスはエウニーヴェへと話の矛先を向ける。後悔を示すヘルムートを、見てはいられなかったのだ。 「それで、どうして女王は俺に獣の櫛をもってこいと命じたんだ……」 「呼びかけに答えぬ湖白をむりにでも引き寄せるには、形代がなければならぬ。湖白から話を聞かねば、ヘルムートの亡骸の行方は知れぬと思ったのだが……櫛に触れれば、ヘルムートが生きていて姿が変えられていることがわかった。そのときにはもう、かけられていた呪いを解くことしか考えられなかったのだ。けれど、わらわのこころの氷を溶かしたのはルクレツィアであったと言わねばなるまいよ」 エウニーヴェの痛ましい視線が腕のなかのルクレツィアに注がれたのを感じ、クラウスはその視線に込められた意味をはね返すように、華奢な身体を覆った。ルクレツィアの漆黒の髪が氷の大地を撫でる。 「……最初からあんたが教会に捕まっていればよかったんじゃないか、とは言わないさ。言えばヘルムートが苦しむのがわかるからな。だが、ルクレツィアはどうする。これではただ犠牲になるために生きてきたようなものじゃないか!」 「クラウス……」 「ルクレツィアはもっと微笑んで生きるべきじゃないのか」 叫んだクラウスの漆黒の瞳から、ふたたび透明な涙が零れて落ちる。 魔力もなにも込められていない、ただ純粋にルクレツィアを思う気持ちだけで流した涙だった。それが、雫となって大地に捨て置かれたままの氷の鏡に触れて弾ける。 ぱちり、と火花が散るような音が鏡から響いた。 火花の波紋が鏡に映り、凍りついた魔力の欠片であるそれに亀裂が走る。蛍火のごとく小さな火花は鏡のなかで踊り、ついで鏡の枠を超えて燃え広がった。 凍りついた大地は輝いて白く燃え、炎は渦巻いて波のごとく森を走る。 大気の氷の粒さえぱちぱちと音をたて、生まれた火花が逆さ氷柱のように立つ木々の幹に絡みついた。 葉脈までも氷の鎖とかしていた白き影をつくる木の葉の重なりが、銀の蝶のようにあえかにまたたいたかと思うと、水晶の鈴を震わす音色とともに緋色に燃え立った。 朱色と金、緋色と銅に色を移し、森の様相が変貌する。 静謐そのものであった森に血が通い、森の生命全てがその喜びを示していた。心地よい風が木々をゆらす。葉が触れ合うたびに火花が落ちた。 そしてさらに、炎の葉と燃えた木々は、その赤を生き生きと輝く緑へと翻す。 草原の民であったクラウスにとって、緑ほどこころの落ち着く色はなく、陽光さえ透かす見事な翡翠の葉を見上げた。 この翡翠色はまぎれもなくルクレツィアの瞳の色である。 クラウスが鏡に零した涙には、クラウスのルクレツィアに対する思いと記憶が込められていた。だからこそ、森の葉がこれほどまでに鮮やかな翡翠に見えるのかもしれない。 記憶が巡るように、季節が変わるように、森のなかの凍りついた時が戻っていく。 翡翠色の葉から零れるように、真っ白な芙蓉の花が咲いた。 匂いやかな木蓮、上品な花水木、花という花が緑の森を覆いつくす。 そして森はふたたび真白く彩られた。 凍りつく銀の森ではなく、暖かな白の森ではあったが。 とくり、と己の鼓動がなるのを感じ、クラウスは上向けていた顔をルクレツィアへと下ろす。そこに、あるはずのない翡翠色の瞳を見つけて息を飲んだ。 言葉も呼吸も奪われていた。 そして己の心も。 「クラウス……」 呼びかけられて気づけば、腕のなかのルクレツィアが、抱きしめられていることを恥ずかしがるように頬を染めていた。 「クラウス、泣いているの……」 「ルクレツィア……」 「泣かないで、あなたは私が守るから……」 ルクレツィアに囁くように言われた言葉に、クラウスは両腕に力を込め、けれど痛みを与えぬように、強く強く抱きしめた。 咲き誇る白芙蓉の花のごときルクレツィアの微笑みを胸に。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。 |