□■ 媚薬と毒薬 ■□ |
海賊と巫女は賭けをした。 「おれを好きになればここからさらってやる」 巫女は表情に困惑を浮かべて呟いた。 「好きになんてならないわ」 海賊と巫女は賭けをした。 「おれを好きになればここからさらってやる」 巫女は表情に微笑をたたえて答えた。 「好きになることなんてありえないわ」 海賊と巫女は賭けをした。 「おれを好きになればここからさらってやる」 巫女は表情に悲痛さを滲ませて叫んだ。 「好きになんてなりたくないの」 うつむけば練り上げた艶を持つ濃い銀髪が頬を覆った。 それでも、青年という歳も歳なら姿も精悍で屈強そうな男が、冥々鬱々とした雰囲気で肩を落としあたりを憚ることなく落胆していれば、どうしたところで人目を引くだろう。 その上、バルトが腰掛けているのは人通りの多い教会前の広場の噴水である。 わかっていてもその好奇に満ちた視線はバルトの神経を逆撫でた。 滅入る気持ちと周囲に対する怒りで安定を欠く己のこころの在り様に、ますますバルトの落ち込みは深く、あわせて眉間の縦皺も深くなる。 そうしたバルトの頭をわしわしと撫でる手があった。 「どうした大将、へこんでるな」 見上げる前から、近づいてきた大柄の影でその相手がだれかはわかっていた。 「ニーナ、買いつけは終わったのか」 いかつい風貌で片目に眼帯をあてたニナナリスは、そのかわいらしい呼び名にふさわしくなく堅気ならぬことを端々にあらわしていた。なじみの食料品店へ注文にいった帰りだということは、その指示を出したのが自身ゆえにバルトも知っている。 「まあな。それよりおまえさんに元気がねえと船の士気にかかわるんだ。戻るまえにもっとしゃきっとしてくれよ」 先代から船を受け継ぐときバルトとの決闘の末、海賊船エル=シダルの頭目の座を譲ったニナナリスは、バルトよりも年長でその分いくらばかりか人生経験が豊富である。軽口に織り交ぜられた己を心配する響きの声音に、バルトは苛立つ気持ちを落ち着かせた。 子供じみた自分に呆れつつ、手にしていた二つの硝子瓶をニナナリスに振って見せる。 「やるよ」 「これは……まさかあいつが作ったものか」 受け取ったニナナリスが驚いて目を見張る。すっぽりと掌に収まる硝子瓶の中身が、市販の酒や香水などではないことが、かつての出来事からすぐに見て取れたのだ。 「リシャルトのやつ、まだこんなもんを作ってんのか」 苦い表情でニナナリスが吐き捨てるように言う。 「あいつの正体がわかって、それでも乗船を続けさせるとおまえさんが決めたとき、俺は条件をつけたはずだよな。もう二度とおまえさんの命は狙わせねえって」 「べつにリシャールはもうおれの命は狙ってないさ」 王宮時代の小姓であったリシャルト=ハビエルが、お目付け役であり密命を受けた刺客であったことを知るのは、船のなかではバルトとニナナリスだけだ。 激昂するニナナリスに対し、バルトは飄々として苦笑する。 今ではリシャールはその知識と腕をいかして船のいい薬剤師だし、かつて船に潜入してきたときのような虚ろなまなざしもしていない。見張りと称してそばをうろつくニナナリスにも剣を教わったりして、必死に船に馴染もうとしている。 それを無理をいって今回、バルトがこの二つの薬を調合させたのだ。 「緑のほうが媚薬、紫のほうが毒薬だ。ニーナだったらどっちを飲む」 「どっちもおだやかじゃねえな」 淡い紫はバルトの瞳の色であり、深い緑はあの少女の瞳の色だった。 バルトは反り返るようにして高みに聳え立つ教会の尖塔を見上げ、空のまぶしさに目を細めた。しかし塔にはバルトにとって太陽よりも遥かにまばゆい存在が囚われ、隠されている。艶やかな漆黒の髪をなびかせて、冷酷にバルトを退けるひとりの少女だ。 どうしてあれほどまでにかたくなに拒むのか。どうして微笑みひとつ与えてはくれないのか。まるでバルトの姿をその翡翠色の瞳に写すことさえ苦痛だというように、傷ましく顔を伏せて視線を逸らすのはなぜなのか。 問いただすべく手を伸ばせば、その場で昏倒しそうなほどに頬を蒼褪めさせた。 それほどまでに触れられるのが嫌ならば、いっそこの腕のなかで息絶えてしまえばいい。 「おれのことを好きになるのがどうしても嫌なら、さっさと毒をあおればいいんだ」 苦々しく唇を噛んだバルトに、ニナナリスがふむと大きくうなずいた。 「なんだ、あのお姫さんにまたふられたのか」 「またとかいうな」 「いつものことだがざまあねえな」 「うるさい」 にやにやと笑ってみせるニナナリスのわき腹を、八つ当たりとばかりにバルトは拳で殴りつけた。大げさにニナナリスが痛がって背中を丸める。 「おいおい痛てえな。俺になにを言われたって大将はこたえやしねえだろ。あのお姫さんくらいなもんだ。おまえさんにそうも暗い顔をさせるのは」 「そんなにおれに好かれるのがいやか、いやなのか」 「大将はわりかし意気地がねえよな」 ふたたび落ち込みだしたバルトの頭を、ニナナリスもまた軽く叩く。言葉こそからかいを示すものだが、行為に含まれるのはやんちゃな弟を可愛がるようなやわらかな慰めである。そうした気安い所作を取れるのも、仲間のうちではニナナリスだけだった。 「うまい酒があればそれを飲む、財宝があれば行って奪う、いい女がいれば強引にさらう。それが海賊の掟だろ」 バルトが頭を撫でられたまま上目遣いににらみ上げると、ニナナリスがしょうがないというように目じりを下げて笑った。めったに見せない表情だが、いかつい顔が少しだけひとの良いものになる。 「頭も悪くねえし場数も踏んでるはずなのになあ。鈍感ってのは伝染するもんなのか。だったら一生、このまんまなんじゃねえかって気がするのは俺だけか」 おそらく、互いが深く惹かれあっていることに気づいていないのは、燈台の姫と元王子の海賊、当人同士だけだろう、とニナナリスは内心呆れている。そしてまわりのだれに聞いてもそう言うだろうと思うのだ。 そもそもが、賭けを持ちかけられて好きだという女など、ニナナリスならば信用できない。だからこそ、自分から賭けを持ち出したりはしないだろう。塔から連れ出してやるなどと約束をするぐらいなら、一生おまえだけを愛すると約束したほうが、話は早く進むと思うのだ。むだな駆け引きなどせず、連れ出してこいと何度怒鳴りつけようと思ったか。 バルトの嘆きぶりから察するに、今回燈台の姫が、媚薬と毒薬のどちらを選んだのかは明らかだ。無理やり好きになるくらいなら、毒をあおったほうがいいのだろう。そう、ひとの気持ちというのは無理やりどうこうできるものではない。 もしかしたら、と思ったときにはもう後戻りのできない恋をはじめてしまっているのだ。 ふたりだけが、それに気づいていないだけで。 「おれなしで生きられないようにならないなら、とっとと死んでしまえばいいって思ってたんだ。だが、たとえおれの手にかかってであっても、あいつが死ぬのは嫌なんだ」 深く沈みこんでいたバルトが、苦しい思いを吐き出すように低く呟く。 「あいつが、だれも愛さないで生きていくのも、おれ以外を愛して生きていくのも、どちらも許せない……そんな運命なら、変えてやる」 それははじめて塔で出会ったときから、バルトが燈台の姫に言い続けていることだった。 だれに愛されることもなく生きて、死んでいくのが燈代の責務なのだといった少女の、痛みを堪えたまなざしを思い出すだけでバルトの胸がきしむ。 「預けて欲しいのに。ひとこと好きだと、さらってくれと言ってくれれば、なにがあっても守ってやるのに」 言葉が、思いが伝わらないことに焦れて、ただ乱暴に自分の思いを叩きつけるだけの逢瀬が、ひどく苦しい。拳を握り締めてやるせなく己の膝を強く叩いたが、その痛みなど胸を打つ痛みに比べればどうというものでもない。 それでも、バルトが強引になれないのには理由があった。 「だけど……あいつが運命を変える気がないなら、おれひとりの身勝手でふりまわしてもしょうがない。わかってはいる、わかってはいるんだ……」 バルトが躊躇いを見せるのは、その身に受けた呪いのせいだ。 『ふたりの母を殺し、ふたりの妻を亡くし、ふたりの娘に看取られる』 生れ落ちた瞬間に母の命を産褥で失わせた王子に、王室付きの占術師はそう告げた。王は気に病むことはないと後妻を迎えたが、義母はそんな呪いを背負った王子を自分の子供と分け隔てなく愛することはできなかった。王子の歳若い妃が、娘を産んで彼の母と同じように死んだときから、王妃は恐れを抱きだした。 バルトとておまえは母親を殺すといわれ続けて、国に留まるのは苦痛でしかなかった。そして逃げたのだ。愛するひとたちを守るために、あえて愛するひとたちから距離を置いた。それがより義母の不安を煽ることになるとは思わずに。 王妃はほどなくしてリシャールという間者をつかい、王子を毒殺することを企んだのだ。 その企てはいまのところ成功していない。この先も成功することはないだろう。指示を出した王妃が、幻覚に悩まされて城の塔から身を投げたからだ。 『ふたりの母を殺し、ふたりの妻を亡くし、ふたりの娘に看取られる』 呪いはほぼ成就している。 もうだれも愛さないと誓ったバルトが、そうした誓いに意味のないことを知った、燈台の姫に出会ったときから、バルトのなかでは悲しいほどの予感がしていた。もし、燈台の姫をさらい、自分の思うままにそばにおいて愛せば、生まれてくる子供は娘だろう。 そして自分は、最愛の相手を失うのだ。 運命を変えるといいながら、逃れられぬものなのかもしれないという恐れが、喉を引き絞るような叫びとなって鍛えた身体を這いのぼる。奥歯をかみ締めることでなんとか衝動を抑え、恐怖をねじ伏せるように強い意志で顔をあげた。 「それで……今日はなんていわれたんだ」 ニナナリスの話す内容を選ぶようなゆっくりとした言葉に、バルトは唇だけで微笑する。 「好きになんてなりたくない。あなたのことなんて、絶対に」 「そりゃまたずいぶんとはっきり言われたもんだな」 つける薬もない、とぼやいたニナナリスに、バルトが再度切り出した。 「それで、ニーナならどっちをとる」 「俺なら自分から毒薬は飲まねえな。俺が死んだらだれが大将を護るんだ」 ニナナリスはなんのことはないというように、緑の、媚薬の入った瓶を開けて飲み干した。示したのはそのどちらを選んでも、バルトに付き従うというニナナリスの信念である。 「むざむざ大将を危険なめにあわせるくらいなら、大将と一晩過ごしたほうがいい。喜ばせてやるから安心しとけ」 大量の酒を飲んでも酔わぬ頑強な身体に、少量の薬などさしたる効果ももたらさない。軽く煽るだけで空けてしまったニナナリスが緑の瓶をバルトに投げてよこした。 「ただし大将のけつを追っかける前に、リシャルトのやつを殴りにいかせろよ。大将に毒を渡すなんてなにを考えてやがる。なにかあったらどうするつもりだ」 すぐにも、船で待つリシャールのもとに向かいそうなニナナリスに、バルトも身軽な動作で噴水の縁から立ち上がった。落ち込むよりも先にすることがある。 「どうやら警備兵がおれたちに気づいたみたいだ。その薬が効きだしても困るだろうから、さっさと船に戻るとするか」 人ごみを縫うようにすたすたと歩き出したバルトは、後ろを守るように付いてくる忠実なニナナリスをふと振り返り、実に朗らかな、悪戯っぽい笑みをしてみせる。 「そうだ。ひとつ言い忘れていたがリシャールはおれと約束してるから、もう毒薬はつくらない。作るのは酔い止めの薬か下剤ぐらいだ。ニーナに飲ますといって特別に効果の強いものを作らせたんだが、結局どっちを作ったのかは聞かなかったな」 「おい……」 空高く響き渡る笑い声がいつか呪いを打ち破る力となることを、今はただ静かに祈った。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。 |