□■ ひどいひと ■□


 海賊と巫女は賭けをした。
「おれを好きになればここから攫ってやる」
 巫女は表情に困惑を浮かべて呟いた。
「好きになんてならないわ」

 海賊と巫女の賭けは続いた。
「おれを好きになればここから攫ってやる」
 巫女は表情に微笑をたたえて答えた。
「好きになることなんてありえないわ」


 花のごとく艶やかに、咲いて散るなら潔く。
 そう願うことでルチアは身に課せられた日々の憂鬱を紛らわせていた。
 けれどいま、これまで己を支えていた密やかなその思いさえ厭わしい。慈しみ育てたマーガレットの花びらが無残にもあたりに散らばるのを、ルチアは魂を奪われたような虚ろな眼差しでぼんやりと眺めた。
「どうしてあなたたちだけなの……」
 呟きには嫉妬と羨望が滲み、ついさきほどまで微笑みがたたえられていた翡翠色の瞳からは、押さえきれぬひとすじの涙がほつりとこぼれた。
 涙が頬を伝い大地に散らされた花びらに触れたとき、ルチアの細い身体も押し隠していた緊張がとぎれてくず折れる。中庭の花壇は男の暴虐を受けながら柔らかな土壌を失うことなく、母のごとき優しさでルチアの身体を抱きとめた。
「あなたは……ひどいひと」
 荒らされた花壇は気まぐれに教会に訪れる銀髪の海賊の仕業だった。茎のしっかりとして伸びやかなマーガレットが首を落とされた哀れな姿で横たわり、黒々と豊かな命を育む土はえぐられ踏みつけられている。
 どうしてこんなことになったのかルチアにはまったくわからず、止める間もなく背をむけて去っていった海賊を思えば、胸の奥がしめつけられるようにつきりと痛む。
 好きになれば攫うといいながら、自分では好きだとは言わない海賊が背後に来ていたことに気づかず、いつものようにルチアは朝の祈りのあとの日課として庭作業をしていた。花びらよりも白い指先で薔薇の棘を抜き、ドレスの裾が土で汚れるのも構わず、朝露を含んだヒヤシンスに微笑みかけた。
 腕を捕らえられたのは、花占いにこそふさわしい可憐なマーガレットに手を添えたときだった。思い返し掴まれた手首に触れるだけで、もどかしさと気恥ずかしさが燃え上がる。
「ルクレツィア」
 つと呼ばれた声に、ルチアは切なさだけを残す記憶を辿ることを止め、瞳を潤ませたまま振り返る。傷ついた表情を隠すことなく中庭の入り口に目をやった。
「ロビニアスさま……」
 予想したとおり、そこにいたのはこころをかき乱す海賊ではなく、教会の長であり養父たるロビニアスそのひとである。
「これはひどいね」
 仕方ないなあ、と苦笑するロビニアスの手には釣竿がにぎられている。ルチアが花壇を愛でる隣で、噴水の池に放したザリガニを釣るのがロビニアスの息抜きなのだ。
つばの広い麦藁帽子に膝のあらわな丈の短い下穿き姿のロビニアスは、どう好意的に見ても法典の数々を網羅し教義を熟知する教会法王には思えない。庭師か馬番の休日といった風情だ。だが、ロビニアスのこうした気取らなさは、教会に拘束されているルチアの気持ちをなるべく穏やかなものにしようという配慮である。本来、めったに塔から出ることのない燈代の姫たるルクレツィアに中庭の花壇を造ることを許したことも、堅苦しさを嫌うロビニアスらしい大らかさだった。
 不自由があれば言うようにといつも気にかけてくれているロビニアスに、ルチアはぎこちなく笑顔をつくると頭を下げた。表情を取りつくろうことなくこころのうちを現せる相手だが、それゆえに心配をかけてしまったことが悔やまれた。
「申し訳ありません、ロビニアスさま」
「なんでルクレツィアが謝るの。どうせバルトフォラスがまた無茶したんでしょ」
 呆れ返った調子でそう言うロビニアスはルチアの隣にしゃがみこむと、手折られたマーガレットの残骸にああ、と顔をしかめた。
「どうしてこんなに花壇を荒らされてしまったわけ?」
「私……わかりません」
 言葉も、なにもなかったのだ。
 掴まれた腕に驚いて身をすくめた瞬間、苛立ちをこめた舌打ちがもらされ、手首が乱暴に離されたかと思ったときには、その大きく力強い指はマーガレットに伸ばされていた。つぎつぎにむしり取られていく花たちを、庇うことも救うこともできずに、ルチアはただ身体を硬くして怯えるばかりだった。そして身じろぎひとつせず固まっていたルチアに、その冷酷さを見せ付けるかのごとく、海賊は手折って束にしたマーガレットを押し付けたのだ。
『おれを好きになればここから攫ってやる』
 耳に残るその声は余裕めいて低く囁かれ、契約とも揶揄ともつかぬ言葉にルチアはいつものごとく答えた。
『好きになることなんてありえないわ』
 いま以上に好きになることなんてありえない。
会えないあいだは苦しくて、会えばまたすぐにいなくなってしまうことが悲しくて。
 微笑みが浮かぶのは、あのひとがいなければ息もできない自分が、あのひとに会えたときだけは、自分もあのひとも生きていることを確かめられるから。
「もしかして僕が余計なことをしたのかな」
「ロビニアスさまがですか、なにを?」
 なにを悔いることがあるのだろうかと驚けば、ロビニアスが頬を掻いた。
「ううん、二人きりにさせてあげようと思って、バルトフォラスを先に行かせたんだけど。僕も一緒にくればよかったね」
 最初はもごもごと口ごもっていたロビニアスだが、ごめんね、と首を傾げたあとに釣竿を手放すと、倒れたマーガレットのひとつひとつに土を被せだした。弔いをこめた行為に来世の祝福を祈る言葉を添える。法王の祈りには高額な寄付を必要とするものだが、花からそれをえられるものではない。言うなれば、咲くことですでに代価を支払っているのだ。
「もともと土から生えていたものを土に還すのもお墓を作ったことになるかなあ」
 ねえ、とロビニアスが穏やかな表情を向けると、悲愴さを漂わせていたルチアの瞳がほんのりとやわらかく解けていった。
 すぐにルチアの手が倣って土をすくうのにロビニアスはにこりと笑い、眼鏡に隠れて見えにくい目じりのしわを深めた。ロビニアスはバルトフォラスの不機嫌の理由が、庭作業によるルチアの手の汚れによるものだと気づいていた。
 なにものにも触れさせず、自分以外のなにものも愛でることを認めないバルトフォラスのあからさまな恋情は、はたからみれば仕方がないという呆れと苦笑を誘う。
 だがあえてロビニアスはそれを口にせず、ただひっそりと唇のはしを持ち上げた。
バルトフォラスの抱える運命を知る身としては、そうやすやすと大事な娘を預けるわけにはいかない。ルクレツィアが、閉塞さはあれ安逸とし、命の危険だけはまったくないと言える塔から、自らの意志でバルトフォラスについて出ることが、バルトフォラスに対し手引きを協力するかわりに約束させたことだった。
 幸せにおなり、とロビニアスが願うのは、なにもルクレツィアに限らず、バルトフォラスに対しても、手折られた花に対してもである。
「愛でるために花を摘めば、その花の命を縮めることになるなんて、困ったことだよねえ」
「ええ……」
 ロビニアスの言葉に含まれる意味など知らぬルチアの手はすぐに新たな土くれを浚ったが、うなずくルチアの胸には暗い影が差していた。
「あの……ロビニアスさま」
「なんだい」
「いえ……ありがとうございます、せっかくの休息ですのに」
 言葉を濁しいいあぐねたのは、あえてそれを確認することが怖かったからだ。だが、バルトフォラスを先に行かせた、とロビニアスが言う以上、海賊はルチアに会うために教会に来たわけではないのだ。でなければルチアに会う前にロビニアスに会う理由がない。
 言葉遊びも浚う手も、すべては海賊にとっては暇つぶしにすぎないという確信に至り、胸のふさがる思いで、ゆっくりとルチアは息をはく。
「ひどいひと……」
 呟けば胸の傷がさらに広がるような気がした。
 手折られ散らされた花々を見れば、最初にそれらに抱いた嫉妬が再び燻りだす。
 あのひとに触れられ、手折られたマーガレット。
 自分のこともいっそこの花のようにむりやり攫ってくれればいいのに。その腕に抱きしめて、口付けを与えてくれればいいのに。
 私ばかりが好きで、好きで。
 これ以上、好きになることなんてありえないのに。
「あなたは……ひどいひと」


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて公開していました。