□■ 燈代のルクレツィア [10] ■□


 磨かれた銀ははじける飛沫のように真白きひかりを走らせた。
 鋏の歯が鈍い音をたててやわらかな髪の端を切り落とす。
 無防備に刃に身をさらすルクレツィアからは、鋏を手にしたハビエルへのゆるぎない信頼がうかがい知れた。背を越して流れる髪は滝を思わせる長さで深紅のドレスに広がり、その黒々と濡れたような艶は滑らかな肌をより白く印象づける。
 孤独を秘めた翡翠色の瞳は、なにかを堪えるように繊細な瞬きと震えを繰り返したが、滲み出るその頼りなさは己の言葉がルクレツィアの胸を抉ったせいだと、クラウスは焦る思いで視線をさまよわせた。少女を認識できなかったのはクラウスのせいだけではないはずだ。だがもしそれをルクレツィアが責めたのならば、クラウスもこれほど後味の悪い思いを抱くことはなかっただろう。ルクレツィアはまるで自分が悪かったのだというように、ただ静かに、クラウスの言葉にそうねとぎこちなく頷いたのだ。
 あなたが私のことをわからないのはあたりまえだわ、と。
 ひそりと呟かれた言葉には隠しきれぬ悲哀と科せられた重荷が漂っていた。
「ルクレツィア、もういいよ」
 クラウスとルクレツィアのあいだにある張り詰めた雰囲気をはらおうとしてか、ハビエルがことさら軽やかに言った。悪戯めいたひかりを湛えた瞳には幼子をいとおしむ気持ちが溢れている。そしてそのいとし子を手放す一抹の淋しさも。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。口調に乱暴なところがあってもクラウスは争いごとが嫌いだからね、優しい男だから」
 からかうようにハビエルが言いテーブルに置いた銀色の鋏は、柄に翼の生えた獅子の象られた装飾のみやびなものだ。受け皿も瑪瑙と琥珀で縁取られた豪奢なつくりである。だがその受け皿に捧げられた漆黒の髪こそ、蜂蜜をとろかせた黄金へと輝きを変えて、地上のいかなる宝石をも凌駕する神々しさで光りだす。
 切り落とされ、まるで命の最後の灯火を燃やすように輝く髪のひとふさを、ハビエルは取りこぼすことのないように用意しておいた真鍮の懐中時計の蓋に挟んだ。
 燈台代理の髪を食んだ時計は、夜にはひかりの糸を伸ばして薔薇硝子の塔を指し示す。燈台の巫女への完全なる方位針たる時計の販売こそ、教会の大きな収入源であった。
「あんたにくらべればだれだって臆病な平和主義者になるだろうさ」
 ルクレツィアを燈台から連れ出せば、教会は慌てふためくことになるだろう。
 ハビエルが連れ出して欲しいと頼んだ少女が、燈台の巫女たるルクレツィアのことであることは明らかだった。
 唸るようにクラウスは悪態をついたが、ハビエルから引き受けた依頼を違えるつもりはない。それがどれほど教会の混乱を招くことになっても、それでハビエルの気持ちが安らぐのであれば、クラウスにとってはそちらのほうが重要なのだ。どれほど無茶なことを口にしているように思えても、そこにはハビエルなりの意味があり正義がある。クラウスがハビエルに寄せる信頼は、言葉にされたことよりも言葉にされなかったその思いによるところが大きい。口ではどう言おうと、出会いの最初になにも言わずクラウスと緋粋を受け入れ匿ってくれた借りを返しきれているとは思えないのだ。
「クラウスは照れ屋なんだよねえ」
 ハビエルの軽口にルクレツィアがほのかに微笑む。その微笑みにはかすかな翳りが残っていたが、表面に現れるそれなど胸のうちに押さえ込んだものの幾分かであろう。ひかりと影をその身のうちに宿す淋しさが、ルクレツィアのなかで狂おしく渦巻いていることは予想に難くない。それはこの地にいるかぎりかわることはないのだ。
「ルクレツィア、もういいよ」
 ハビエルの呼びかけには強い思いが込められたような硬さがあった。だがその声はルクレツィアがハビエルを振り仰ぐわずかのあいだに、やわらかく穏やかなものにかわる。
「もういいよ、引き止めてすまなかったねお戻り。いや……お行き」
 促すその声にこそハビエルは強い命を込め、ルクレツィアの背をやんわりと押した。
「ハビエルさま」
 ルクレツィアの困惑はしばらく眉根に漂い、やがて諦めるように散っていった。
 言葉にならぬ思いのかけらがいくつか転がる。
 ひかりを求めるものにとって闇は忌むべきものだ。一方では強く求められ、一方では強く否定される夜の自分と昼の自分に引き裂かれ、己へあてた嫉妬にルクレツィアは疲弊している。そしてそこには問い掛けることや求めることへの怯えだけが残っていた。
 華奢な背に翳りだけを率いてルクレツィアが部屋の扉に向かう。
 黒髪がゆらりと揺れ、扉がしまると同時に小さな火花が夜を暗示してはじけた。
 途端、クラウスは有無を言わせぬ力でハビエルを椅子に引き倒した。
「どうしてあんたはそうひねくれた物言いをするんだ。きちんと説明してやればいいのに。さっきのことだって、どういう意図があったのか聞きたいもんだな」
 クラウスが乗り上げるままにハビエルは長椅子に身体を仰のける。
「これかい。だってルクレツィアはここを出て行くんだよ。ぼくが危険かどうかより、ぼく以外の男が危険な生き物なんだって教えるほうが良いと思ったんだよ」
「ほんとうに彼女を連れ出していいのか」
 ハビエルが自分の黒髪を弄ぶのを腕をつかんで止めさせ、クラウスは凍る瞳を細めた。
 その真摯な視線にハビエルは喉の奥で低く笑った。
「ぼくはルクレツィアの後見だけど、彼女の暮らしを取り仕切って管理していた責任者は法王そのひとだよ。あの、ばかばかしい権威のひけらかしを考えたのもね」
「では衆人環視のなかルクレツィアをさらえばいいんだな」
「責任問題になるねえ、もちろんぼくのではないけど」
 観衆の待つ廊下にはやばやとルクレツィアを追いやったのは、機会を促しているのだ。そしてハビエルは敵であるその相手をもこれを機に追い落とすつもりだ。
 意図を知りハビエルを引き起こしながらも、クラウスは背筋を駆け上がる悪寒に身震いをする。
 クラウスが恐れるのはもちろんハビエルの企みではなく。
 昨夜の少女といまのルクレツィアとの間には大きな違いがある。
 クラウスの凍れる過去を映す瞳には、ひかりを放ち輝ける夜の巫女こそ、禍々しいまでの闇色に覆われて暗く淀んで見えた。
 そしてその闇色は祖父を殺めたあの魔物のにおいをまとわせている。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。