□■ 燈代のルクレツィア [11] ■□


 影のごとくひそやかに忍び寄る不安は翳りをまとい薄青の瞳に浮かび上がる。
 指先に這う震えが抑えきれぬ恐怖であることに気づき、クラウスは強く拳を握り締めることでそれを打ち消した。たとえその安堵が一瞬の慰めにすぎないとわかっていても、己を鼓舞しなければあの怖気だつ忌まわしさから逃れるすべはないように思えるのだ。
 穏やかな夜の闇のなか、薔薇硝子の燈台で見かけた少女は、眩いばかりの黄金の髪と吸い込まれるように鮮やかな翡翠の瞳を持っていた。その姿だけならば存分に美しいといえるだろう。だが彼女を取り囲む陰鬱な印象こそがクラウスの眼を奪い衝撃を与えた。陰鬱さは夜よりも暗く、闇よりも重くそこに顕現していたのだ。
 黄金ならず漆黒の髪のルクレツィアが出て行った扉に視線をやり、クラウスは憤りにかすれる声をもらす。
「あの娘はなんなんだ。いやそもそも燈台代理ってのはなんなんだ。ひとの身体に絶えぬひかりを宿らせるなんてことが本当にできるものなのか」
 燃え盛る黄金の髪は残酷な茨のごとく少女の身体をしばりあげ、その真白き炎は蛇を思わせる動きで肌に爆ぜる。ひかりは確かに彼女の表面を被っていた。しかし灯心の根がもっとも暗くなるのと同様に、ルクレツィア自身の表情やこころのうちは影を負っている。その哀れさだけでも目をひくというのに、それを凌駕する恐怖と憎悪の対象が燈台の少女には纏いついていた。
 炎が揺らめくたびに彼女に覆いかぶさり蠢く生き物の輪郭は、ただそこに在るというだけでクラウスの身体から気力を奪った。あのとき緋粋を呼び、連れ出してもらわなければ、クラウスは立ち上がることさえできなかっただろう。肌の内側をなで上げる禍々しさは、祖父を殺めた闇色の魔物のものに他ならない。
 それでも、気のせいだと思い込みたかった。
「ルクレツィアとあいつにはなにかつながりがあるのか。いや、どんなつながりがあるのか話してくれるつもりになったから引き合わせたんだろう?」
 クラウスは長椅子に深く身を沈め、おそらくは教会の機密であろうそれらを知るまで、一歩たりとも動いてやらないという決意を表した。
 引き受けたばかりのハビエルからの依頼をいまさら断りはしないが、信頼関係の根底に傷を入れられたクラウスとしては、なんらかの説明がなくては腹の虫がおさまらない。魔物を捜し求めてクラウスが旅を続けていることを、ハビエルは知っていたのだ。手がかりを告げられずにいたのだとすれば、そこにどんな意味があったというのか。思い当たるいくつかの理由にクラウスは舌打ちをもらした。
 険しい表情のクラウスにハビエルがめずらしく本当に困った顔をする。ハビエルのまっすぐにのばされた銀灰色の髪が、それを隠すように頬にかかった。
「クラウスは怒るだろうなと思っていたんだよ。でもぼくも怒られるのはいやだから、いいそびれたままなんとなくね」
「怒られているうちにすべてを話したほうがいいんじゃないか。このまま黙っているつもりなら」
「ぼくを嫌いになるとか」
「いいや、泣いてやる」
 その状況を想像したのか、クラウスの啖呵にハビエルがひどく嫌そうに顔をゆがめた。
「あんたがなにも俺に嫌がらせをしたくて黙っていたわけじゃないことぐらいわかっている。俺があの魔物を見つけないほうがよかったんだろう、俺の身が危ないから」
 ハビエルが、なるべくならばクラウスに危険なまねはしないよう願っていることは知っていた。枢機卿の護衛官である聖騎士になることをすすめられたこともある。そうすれば教会の保護を表立って受けることができるのだ。ありがたいとは思うが、クラウスは魔物を倒すことは己に課せられた使命と決めている。ハビエルが教会内の権力闘争にクラウスを巻き込まないようにしているように、魔物への復讐はクラウス自身の問題だ。今以上の助力を頼むことは、利口ではないと知りつつ意地が邪魔をする。ただでさえ世話になり支えとなっているハビエルに、寄りかかるだけの存在にはなりたくないのだ。
「話す前に約束してもらえるかな」
 諦めたのか神妙な顔をしてみせるハビエルを、クラウスは未だ苛立ちの収まりつかないその薄青い瞳で睨んだ。
「これから話すことは他言無用だといいたいんだろう。あんたが俺をどう思っているかは知らないが、俺はあんたに不都合になるようなまねはしない」
 顔を背けて吐き捨てた言葉に、ハビエルがゆるりと眉を吊り上げた。それは思いを理解しないクラウスへのもどかしさの表れであり、単純な不快ではない。
「ぼくがクラウスをどう思っているか知らないだなんてよく言えるね。そんなの心配でたまらないに決まっているじゃないか」
「心配するのは信頼していないからだろう。俺があいつを探していた五年のあいだ、あんたはルクレツィアという鍵をずっと隠し持っていたんだからな」
 返された言葉を切り捨てるように言うクラウスは、ハビエルの過保護な扱いにこそ苛立っているのだ。ハビエルの作為を許せないのではなく、その作為をこそ最良と思わせてしまった自分の不甲斐なさと頼りなさこそが嫌悪の対象である。聖騎士の称号を受け取らなかったのも、本来ならば守るべき存在の枢機卿に守られる立場になることが嫌だったのだ。
「クラウス、信頼していなければルクレツィアを託すようなまねをするわけがないだろう。約束してほしいのはルクレツィアを連れ出して、彼女の父親のところに送り届けてほしいということだよ」
「ルクレツィアに父親がいるのか」
「父親がいないでどうやって生まれてくるのさ」
「そういうことをいってるんじゃない」
 苛立つように訂正する生真面目さはクラウスの優しさの源である。そのことを知るハビエルはわざとクラウスの言葉を揶揄する癖があり、そのたびにクラウスは声を荒げることになるのだ。だがいつもならば悠然とした態度で面白がるだけのハビエルがつかむ司祭服の袖に、ハビエルの心情を表したような深いしわが寄っている。指先に込められた力が常になく強い。
「ぼくはルクレツィアの母親のことも知っているよ。ルクレツィアの母親を塔から逃がしたのは、ぼくの師であるひとだからね。そのあとで、責任を問われてなのか自ら辞したのか、師は教会を去られた」
 胸の奥に憂慮を押し隠すハビエルの、ゆったりと長い司祭服の左肩から半身は枢機卿であることを示す藍色の長衣が覆っている。そこには黄金の糸で、汝の上に罪はあり、と飾り文字が刺繍されていた。教会の教句としてはさして珍しいものではない。死の定められた人間は、生まれながらにして神の祝福を受けた命を奪う罪を負っているのだ。
「どちらであっても、ぼくは師に教会に戻ってもらいたかったからね。都合をつけては森に通っていたよ」
 森、という言葉にクラウスは祖父の暮らしていた森を思い浮かべた。草原の民にしてみれば、祖父は異国人であった。自分がこの国で奇妙なものを見るような目で見られるのと同じ扱いを、祖父は草原の民からされていたのだ。祖母亡き後、ひとりで森に籠もったのはそのせいもあるだろう。
 クラウスは意識が血にまみれたあの場面に引きずられそうになるのを、拳を握り手のひらに食い込んだ爪の痛みで耐える。
 軽く頭を振って視線をハビエルに戻すと、静謐を湛えたハビエルの瞳も、こころのうちの痛みを表して暗いひかりを放っていた。
「ハビエル……?」
「ぼくがいなければあのひとが無残な死に方をすることもなかったかもしれない。ロビニアスさまは、ぼくを助けるためにあの場に残ったんだ」
 ハビエルの口から祖父の名前が出たことにクラウスは息を呑んだ。それまで、ただの一度もそんな話が出たことはなかったのだ。祖父が教会の出身などとは聞いたことがない。草原の民の祖母と結ばれる前の話をロビニアスは好まなかったのだ。
「クラウスの持つロビニアスさまと同じ銃をぼくも持っている。これは枢機卿と法王だけに与えられるもので、ただひとつ、己の命を奪うためだけに使われる。これまで黙っていたぼくを許せないなら、これを使ってぼくを撃つといい」
 告げられた言葉にクラウスは目を見開く。
 血の色が視界にあふれ、それが闇に染められた。
 ハビエルは懐の隠しから取り出した単発式の銃をクラウスに手渡すと、神の御前に立たされたひとのごとく無防備に両手を広げる。ただその瞳には許しを請うような頼りなさはなく、決然として裁きをまつひたむきな強さがあった。
「どうして、いままで黙っていたんだ」
 こぼれでる声を聞きながら、クラウスはその問いかけ以上に気になることを飲み込んだ。
 ハビエルのこれまでの優しさは、すべて贖罪によるものだったのか。すべては祖父のためであり、クラウスへ宛てたものではなかったのか。
 クラウスの苦悩に歪んだ顔に、ハビエルは穏やかに微笑みかけた。
「自分を責める言葉は自分のなかにだけ向ければいいんだよ。だれかに話すことは、許しを求めることになる」
 汝の上に罪はあり、その文字をハビエルはそつと撫でた。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。