□■ 燈代のルクレツィア [9] ■□


 瞬いた翡翠はひかりに照らされて透き通る新緑に、伏した翡翠は影を帯びて落ち着いた深緑に色変わりする。
 滲む感情はそれでいて常に陰であり鬱。
 軽蔑するならば無視を通せばよいものをと、嫌悪もあらわな視線を受けるたびクラウスは半ば不貞腐れた思いで歯噛みする。
 ハビエルの性格もクラウスとの付き合いも含め、すべての事情を知るいつもの侍女であるアニシアは、不確かないいわけで状況を煙にまいていた。ハビエルに差し向けられた刺客はアニシアによってクラウスの身体の下から外へ連れ出され、クラウスにとって居心地の悪いことに部屋にはハビエルとクラウスと翡翠色の瞳の少女だけが残されたのだ。
 当然ながらクラウスはさきほどの自分の在り様を弁解すべく口を開きかけたが、ハビエルに命の危険があることをわざわざ知らせて不安にさせるのは得策とはいえない。少女がハビエルを頼りにしているのは、すがるような視線と怯えて震える拳などのほんの些細な所作からも明らかなのだ。そうなれば事実を曲げてあれはハビエルの悪ふざけだとしかいえないが、それに対する少女の反応は冷ややかだった。
「ハビエルさまがそんな子供じみたまねをなさるはずがないわ」
 年下の少女に子供扱いをされてクラウスが黙ったままでいられるわけがない。
「こいつの腹黒さは大人の遊びにいちいち目くじらをたてる子供には理解できないだろうな。だいたい美人を口説くのは男の嗜みだが俺にだって好みってものがある。押し倒すにしてもあんな女はごめんだね」
 懐にやわらかな胸でなく刃を忍ばせた女などクラウスの好みからは大きく外れる。ついでに言えばハビエルを尊敬のまなざしで見つめる目の前の少女も頑なな印象が強く、手を出す気にはならない。緊張を匂わせる表情から、少女がクラウスに対して構えているのがわかるのだ。怯えた華奢な体躯を蹂躙する趣味などクラウスにはない。
「嗜みではなく楽しみのまちがいではないの? 嫌々させられているようには見えなかったわ」
 口調は強くとも少女に余裕がないことは所在なげに立ったままの姿にも現されている。あるいは近づいて長椅子に座るクラウスと向かい合うことを避けているのかもしれないが。
「望んでやっていたのならこんなところでおまえと言い争ってないであいつを追いかけるだろうが」
「ふられたんでしょう。あんな扱いを受けて喜ぶ女性なんていないもの」
 非難めいた態度を崩そうとしない少女に、クラウスが思わず助けを求めてハビエルに視線を投げた。それを受けてハビエルは小首をかしげ口角を上げてにこりと微笑む。
「クラウス、ぼくも女性を押し倒すなら時と場所を選んだほうがいいと思うよ」
 穏やかに言い含めるハビエルにクラウスは深く椅子に沈みこんだ。
「あんたまでそんなことをいうか。わかっていたけどな」
「うん、クラウスには本当にいつもお世話になってばかりで申し訳ないな。今回も快く引き受けてくれて嬉しいよ」
 予想どおりの言葉に続きさらに要望を重ねてくるハビエルの厚顔さはいっそ小気味よい。
「あんたはまたそうやって無茶をいうし」
強引さにクラウスがため息を吐くも、どうせハビエルの願いを聞くことになるのは最初から予測済みだ。そしてハビエルもそれがわかっているからこそ、あれこれと文句をいうクラウスにめげることなく言い募るのだ。
「ハビエルさまをあんただなんて失礼だわ」
 少女の呟きが聞こえたがもはやそれに言い返す気力もない。
 勝手にしろ、と腕を組んで反り返り、クラウスは両足をテーブルの上に投げ出した。行儀の悪さは自覚しているが、生まれ故郷では椅子ではなく絨毯に直接座る生活をしていたのだ。椅子に座るより馬や驢馬に乗っているほうがまだ落ち着く。無茶な願いを聞いてやってさらににこにことはできず、不本意であることを示してむっつりとした表情のままクラウスは頭に手をやり、騎馬の民の証である頭を被う布がないことに改めて気づいた。漆黒の髪が指のあいだをはらはらとすり抜けていく。
「クラウスのお許しもでたことだしルクレツィアもこちらにおいで」
 クラウスの不機嫌など気にしたようすもなく、ハビエルは距離を置いて立つ少女を呼び寄せた。幾ばくかの抵抗を見せつつ、少女はどこか不安定な歩みで近づくと椅子に腰掛ける。ベージュ色の絨毯を踏む少女の足に靴が履かれていないことにクラウスは一瞬眉をひそめたが、それを口にだすことはしなかった。
「また少しもらってもいいかい」
 ハビエルがルクレツィアの髪に触れて控えめに尋ねる。ぎこちなく頷くのは、ルクレツィアがハビエルではなくクラウスを見つめていたせいだ。その瞳には困惑と恐怖が入り混じり、ときおり覗かせる淡い期待を覆い隠していた。
 鋏を取ってくるといいハビエルが席を外すと、しばらくしてルクレツィアが思い切ったように息を吸った。化粧けのない薄紅の唇が震える。
「あの、だいじょうぶだった?」
 小声で囁かれるそれにクラウスはわけがわからず首をひねる。そのクラウスの反応の鈍さに焦れたのかルクレツィアがさきほどよりは少し大きな声を出す。
「硝子で怪我をしたのではないの?」
「ああ、あれか」
 なにを心配されているのかがやっとわかり、クラウスは安心させるように表情を緩めた。
「こちらこそ部屋を荒らして悪かった。緋粋のやつが突然俺を振り落としたせいで、迷惑をかけた」
「私、あなたが食べられてしまったのかと思ってとても怖かったの」
 ほっとしたように微笑むルクレツィアにクラウスは苦笑をもらす。それまでルクレツィアの瞳に浮かんでいた恐怖はクラウスへのものではなく、困惑は本当にあのときの人間だったかを探るもので、期待は自分を覚えているのかどうかであった。
「あの塔の少女がきみだとは驚いたな」
 わからなかった、とついて出た言葉はクラウスにとってはごく自然なものだ。薔薇硝子の塔の少女と目の前の少女とでは印象が違いすぎる。
 だがそれを聞いたルクレツィアはすぐさま顔色を変えた。
 手折られた白百合のごとく青く、青く。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。