□■ 燈代のルクレツィア [12] ■□


 大陸における神はただひとり。だが国々と民族の差異から、それを指す言葉は多様にある。それでも共通するものといえば、偶像崇拝が禁止されているということだ。
 教会を統率する地位にある枢機卿ハビエルの私的な応接間であるこの部屋にも、神の姿そのものを模ったものはない。壁に描かれたものは伝承にある神獣、霊獣であり植物を意匠化した幾何学的な模様、そして数々の教句だ。
 汝の上に罪はあり、その言葉はすでに使われなくなった古い意匠に満ちた暖炉の縁に掘られている。装飾の繊細な部屋のなかにあって、その時代遅れの重厚さは異質ともいえた。だがハビエルがそれを部屋に残したままにしてあるのは、身に課した教句のせいだけではない。
 ふわりと風が動き、暖炉と壁の間に隙間が出来ると、その暗がりから一頭の獣が躍り出た。その姿は壁に描かれた霊獣のひとつに酷似している。
「この通路も古くなったものだな」
 穏やかな声でいい、緋粋はそのしなやかな巨体を震わせた。琥珀色の体毛がしゃらしゃらと水晶を触れ合わせたような音をたてる。
「どうした二人とも、生娘がはじめて男に馬小屋につれこまれたような顔をして」
 ハビエル以上に酔狂な性質のうえ、明らかに白葡萄酒に酔っている緋粋の言葉に、クラウスは額を押さえてげんなりと返した。酒癖が悪いのではなく、もともとそういう言動の多い獣に悩まされるのは今が初めてではない。
「あいにくと俺は無理やり馬小屋に女を連れ込んだことがないから、それがどんな表情なのかわからないな」
「そうだね、クラウスは年増好みだから」
 すぐさまそう言い添えるハビエルにクラウスは顔をしかめた。ハビエルはいつもどおりの食えない表情を浮かべる。まるで気のせいであったかのように、さきほどまでの沈鬱さが消えていた。
「ひとの趣味を勝手に定義づけるのはやめてくれ」
「だったらどうしてルクレツィアが気に入らないのさ。ぼくが十年もかけて育てたのに」
 難癖をつけるハビエルの悠々としたさまに、クラウスは獣のように唸り声をあげた。
 そのあいだに緋粋が重力を感じさせない歩みでクラウスに近づき、その両足をクラウスの腿に乗り上げる。それがあたたかいのは獣にも赤い血が流れているからだ。
「ルクレツィアが気に入らないなんてひとことも言っていないだろう」
 気に入らないのはいまのハビエルの態度だということは飲み込み、クラウスは撫でるでもあやすでもなく、いつもの習慣として緋粋の頭に手を置いた。
「あんなにあからさまな態度でよくもそんなことが言えるよねえ。ひどく怯えてかわいそうだったじゃないか」
「怯えさせられたのはこっちだ。緋粋だって見ただろう。ルクレツィアにはあの闇の魔物が巣食っている」
 クラウスはやるせないもどかしさに怒鳴りあげ、薄青い瞳を緋色の瞳と合わせた。闇の魔物を探すことは、クラウスだけではなく、緋粋の誓いでもある。祖父とハビエルが知り合いであるなら、緋粋とハビエルが互いを見知っていてもおかしくない。だがだとすれば、クラウスは友人のみならすしもべにも騙されていたことになるのだ。
 猛々しく吊り上げられた青に対して、緋がわずかに緩められる。諍いをどう思っているのか、すべて見通しているのか、労りに満ちたそれはただの獣ではありえない理知の輝きを閃かせた。
「主は先日から怒りつづけているがよく疲れないな」
「俺を怒らせているのはおまえらだろうが」
 話を逸らすためか、求めた答えとは違う緋粋の問いかけにクラウスは一瞬憮然とし、示されたそれを思い起こして眉をひそめる。
 クラウスと緋粋は長く旅を共にしているが、二人の間でも言い争いが絶えたことはなかった。もっとも大抵の場合クラウスが一人で怒り続け、緋粋はそれに対し火に油を注ぐような態度をとり続ける。喧嘩が長引くのはそのせいだ。
「だいたい先日の件は絶対に俺が正しいぞ。俺が緋粋を枕にするならまだしも、緋粋が俺を下敷きにして寝たら俺は潰れる」
「いつも虐げられてばかりいてはわたしがかわいそうではないか」
 飄々と言う緋粋は獣の顔に愛嬌ある笑みを浮かべる。それを見せられるとクラウスの不機嫌は増した。その笑みはハビエルのそれとよく似ているのだ。
「俺は死ぬかと思ったんだぞ」
「誓いに掛けてわたしが主を殺すわけがない。少しじゃれただけで大げさなことを」
 見せた牙は笑みのためで、決して引き裂くためではない。それでも慣れないものには恐怖を抱かせる。クラウスがルクレツィアと最初に塔で会ったとき、ルクレツィアはいまにも倒れ伏してしまいそうな顔色になっていた。あのときのことを思い出すとルクレツィアを覆っていた闇の魔物の気配を思い出して身体が自然と強張るが、口をあけた柘榴狼に遭遇したルクレツィアも不憫だ。
「俺が責めるから煩わしくなってわざと俺を振り落としただろう」
「獅子はわが子を谷に突き落とすらしいからな」
 否定せずさらに空とぼける緋粋の頭をクラウスは軽く叩いた。
「おまえは俺の親じゃないし、獅子でもないし、俺もおまえの子供になったつもりはない」
「決まっている。主は主だ。だがわたしから見ればまだまだ子供の部類に入るがな」
「寝相の悪い獣に子供呼ばわりされたくないな」
「ひとの気持ちがわからないのは子供だからだろう」
「なにを」
「わたしのことはともかく。ハビエルの気持ちは汲んでやれ」
 それまでのどこか軽い調子を変え、クラウスとは比べ物にならないほど長く生きてきた証である思慮深さを漂わせた声に、クラウスは視線をハビエルへと戻した。
 緋粋の言葉を繋ぎ合わせて考えれば、緋粋とハビエルがもとからの知り合いであること、そして緋粋がクラウスを薔薇の塔に落としたのが、偶然ではなかったことが知れる。
 緋粋に諭されてみれば、なにかを諦めたような寂しげな苦笑をもらすハビエルに、クラウスは渡された銃で胸を打たれたような感覚をえる。いつも超然とした男が、己のこれまでを悔いているのだ。そしてそれが許されるものではないと、断罪を待つ心持でいる。
 手渡された銃の冷たさを握り締め舌打ちをもらすと、クラウスはその慣れない機械的な鋭角さを手のひらに閉じ込めた。
「俺の協力が欲しければいいかげんにきちんと説明しろ」
 責めるではなく言ったクラウスに驚いたのか、ハビエルはこくりと小さく頷いてしばらく、無言のままだった。だがすぐに悪戯めいた調子で唇の端を持ち上げる。
「だってね、日を定めてきちんと話そうと思うたびに邪魔が入るからさ。さすがに暗殺されかけてそのまま話ができるほど豪胆じゃないし。せっかく助けてくれたクラウスに撃ち殺されるのは気持ちのよいものじゃないからね」
「おい」
「冗談くらい聞き流してよ、聞いてくれるなら話すから」
 クラウスの年齢どおりの真っ直ぐさと、年齢に見合わない懐深いところに甘えている自覚のあるハビエルはさらりと肩の髪を払い、指を組み合わせると大きく息をついた。
 ハビエルがどれほどクラウスを利用しようとしても、クラウスはそれを当然のごとく受け止める。借りがある、とクラウスは思いつづけていたわけだが、実際にはハビエルのほうがクラウスに対し負い目があった。
「あのね、法王を追い落としてぼくがその地位につくのはそんなに難しくないよ。だけど、そうなれば確実にルクレツィアと番うように教会は動く。年齢的な釣り合いがいまの法王なんかよりよっぽど合うし、今でもその要求はある。でも、好きあっていないもの同士で次代の跡継ぎを作るためだけに生殖行為をしてもねえ」
「ルクレツィアはあんたを好いているだろう」
「でもぼくには好きなひとがいるからね」
 眼差しはほんの少し遠くを見つめ、すぐにその思いを封じて鋭いものへと変える。再びハビエルが口をひらいたときには陰りはすべて消えていた。
「そうなれば、ルクレツィアを逃がすしかない」
「だから俺が浚ってその父親のところに届ければいいんだろう」
 受けた依頼は果たすと強く頷いたクラウスにハビエルは手を振って否定した。
「もちろん、クラウスにはルクレツィアを教会から連れ出してもらうよ。でもそれだけだとルクレツィアはいつまでも狙われたままなんだ。だいいち、さっきまでならともかく、もう君はルクレツィアを表立って浚うことはできない」
「どうしてだ」
 嫌な予感のままにハビエルを見つめるクラウスに、ハビエルが満面の笑みを浮かべた。
「クラウスはぼくの聖騎士になったから」
 こともなげに言うのは、クラウスがこれまで固辞していた称号だった。呆気にとられるクラウスに対し、ハビエルは楽しげに言葉を紡ぐ。
「言っただろう。その銃は枢機卿や法王だけが持つものだって。命を預ける相手に託すものなんだよ。聖騎士というより銃士といったほうが正しいんだろうけどね」
 クラウスの手のひらで銃が重みを増したように思われた。
「なんであんたはそうなんだ」
「だって正面から渡しても受け取ってくれないから」
 どこか拗ねたように、自嘲をこめてハビエルが呟く。
「さすがにぼくの騎士が巫女を浚ったりしたら、ぼくもただではすまないね。だから残された方法はひとつしかないんだよ。というより、最初から方法なんてひとつしかないんだ。これまでだれも信じなかったのか、だれも叶えられなかったのか。語り継がれているのに、燈台は犠牲を捧げてきた」
 指先を落ち着かない様子で組み替えるハビエルの所作に、クラウスは安心させるように手を軽く叩いてやる。いつも余裕めいて、だまし討ちに近いやりかたでクラウスを翻弄するハビエルだが、そういうやり方でしか己の気持ちを伝えられないとしたら、ハビエルはひどく不器用だ。
 微笑を返したハビエルはクラウスの手をそつと払うと、伝承を描いた壁画へと指先を向ける。
 そこにはタイルで描かれた黄金の女鹿と青銀の雄孔雀の姿がある。そしてその背にはそれぞれ女性が騎乗していた。偶像崇拝が禁止されている教会で、はっきりと人物の形で描かれるそれらはどちらも崇拝すべきものではなく、どちらかといえば恐怖の対象だった。
「遥かな昔、炎の女王を封じたといわれる氷の女王のもとに赴き、女王の氷の鏡を譲り受けることができれば、ルクレツィアに頼らなくても絶えぬ炎を生み出すことができる。それを塔に供えることで、ルクレツィアは燈台代理の責務から解放されるだろう」
 それらは教会内で伝承としては語られているものの、すでにその時代を生きたものはなく真偽は定かではない。千年もの間、地上を業火で焼き尽くした炎の魔女と、それを封じた氷の魔女の争いは、文献のなかにではなく詩人の唄のなかに伝えられていた。
 だが確かに氷の女王が今なお住むと呼ばれる森は大陸に現存する。そして同様に炎の女王の末裔も。
「この世に残る魔物の多くは炎の女王のしもべだったといわれているね。そして燈台の巫女はその炎の女王の血統に連なるもの。巫女を媒介として炎を呼ぶ櫛は、魔物のかけらから作られたそうだよ」
「では俺は氷の鏡を探して、そのあとにルクレツィアを父親のもとに送り届けて、戻ってきてこの嘘吐き野郎とあんたを罵って一発殴ればいいんだな」
 他人のために、あるかなしかもわからぬものを探して未開の地へ赴くことに、クラウスは躊躇することなくあっさりと頷く。燈台の枷について告げれば、まちがいなくそう行動するだろうと思っていたとおりのクラウスの潔さに、ハビエルは静かに目を伏せた。
「もしもクラウスが、どうしても今すぐ闇の魔物の餌になりたいなら、ルクレツィアを火あぶりにするとか、水責めにするとかすれば、あいつが現れるかもしれないけどね。あてもなく探すより、来るかどうかはわからないけどやってみる価値ならある」
 クラウスの身の安全を憂えるハビエルにしてみれば、ルクレツィアの自由のためにクラウスを危険にさらすことは本意ではない。そしてクラウスの望みのためにルクレツィアを打ち捨てることもできない。
 だからこそなにげなく銃を受け取ったとき、クラウスの道は決まった。
「怒ってるよねえ」
 心配しているといいながら危険な場所へと送り出す決断を下した自分を悔いて、おずおずと視線を寄こしたハビエルに、クラウスは気づかれぬよう嘆息をもらす。
 友人の回りくどさはもったいぶっているわけではなく、冷静な判断力で導き出される物事を、そのまま進めてしまうことに抗う感情のせいなのだ。そしてそれさえ理性で押さえ込んでいると知った以上、いつまでも怒りつづけることは出来ない。
 それでも、なにかひとこと言ってやらなければクラウスも気がすまなかった。
「罰としてあんたの好きな女を教えろよ」


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。