□■ 燈代のルクレツィア [13] ■□


 闇は蓄積し凝固する。
 胸のうちに降り積もる不安は体中に行き渡り、吐息が肌を撫でるたびに蠢動した。
 ルクレツィアは鏡台に乗せた腕に額をつけて顔を伏せる。痩せた背を黄金の髪がすべり、艶やかな炎が火花を散らした。
 昔、悪戯心と少しの反抗心を込めて、夜になっても櫛を通すことを拒否したことがある。その結果は、幾多の大人に身体を押さえつけられ無理やり髪を梳られるという、屈辱と恐怖を与えられるものだった。その上、櫛を持っていた侍女はルクレツィアの炎に手を焼かれ火傷を負ったのだ。侍女はルクレツィアを責める言葉をなにひとつもらさなかったが、その場にいたひと全てが、面倒を起こした巫女を厄介なものを見るように見た。その件はすぐに枢機卿に報告され、枢機卿から侍女が遠くの教会へと移籍したことを知らされた。
 自覚を持て、ということが従順であれ、という意味だとわかったのもこのときだ。
 それ以来、ルクレツィアは自分のせいで誰かが傷つくのを見るのが嫌いだ。そもそも、人々の平安のためにあるべき燈台代理なのだ。言い換えれば、ルクレツィアの不幸のうえに人々は安寧を築いている。自分が犠牲になってなお、人々に災厄が訪れるのならば、なんのために自分が生きているのかがわからなくなる。
 黄金の楔は人垣の檻。
 白い火花は弾けた真珠の首飾りのようにあたりに転がった。
 どこまでも眩いそれに目を細めると、繊細に設えられた部屋がわずかに狭まる。世界が閉じていく感覚にふと疑問が浮かんだ。このまま、本当に世界がなくなってしまえば、やはり自分も消えてしまうのだろうか。ありうべからざることを夢想する自分が可笑しく、ルクレツィアはくすりと声をもらす。
 陽が落ちて世界に闇が満ちても、世界はそのままにあり続けるのだ。闇に押しつぶされることもなく、また陽が昇ったからといって広がることもない。天上と地上は決して互いに交わらず、どれほどあやふやに見えてもその線をまたぐことはできない。
 この地上で、天上の理とともに生きる定めを持つのは自分ただひとりだ。
 その思いはルクレツィアに重く深いため息をつかせる。
 硝子の砕けた部屋はルクレツィアが枢機卿に拝謁しているあいだに片付けられ、頭上には真新しい薔薇模様が咲いていた。
 手のひらには冷たい月。
 そこに残る血の染みを、ルクレツィアはぼんやりと眺めた。
 おそらく部屋の掃除のために塔から下ろされたのだろう。枢機卿と会えた時間はあまりにも短い。他の来客者と同席させられたのも、自分との面会が予定外だったせいだろう。
 相談したいことがあったのに、と悔しい思いを抱えても、再び塔に囚われた今となっては次の機会がいつになるのかわからない。
 不安を口にすればそれが現実のものとなりそうで怖く、けれどひとりで抱え込むのは重苦しい。胸にせまるそれに喘ぎ、ルクレツィアはきつく瞳を閉じた。
 このまま世界が消えてしまえば、この不安もなくなるのに。
 まなうらに暗闇だけを映していたルクレツィアの耳に、ひたりと水の波打つ音が聞こえた。瞬けばすぐそばに洋杯に泳ぐ青い魚の尾が見える。
「クラウスが無事でよかった」
 唇からこぼれでたのは、意志強い、それでいて厳しすぎることはない顔立ちの青年のことだ。目の前に忽然と現れ忽然と消えた彼が、幻などではなく枢機卿の親しい友人であったことは驚きだ。友人というものをルクレツィアは持たない。これまでルクレツィアを世話していたマデレナは母親のようなものだし、アニシアも年齢は近いだろうが、気が会うようになるには長い時間が必要に思える。
 黄金の髪のときの自分にくらべて、黒髪の自分が地味で貧相なことはわかっていた。それでも、ふたりが同一の人間だと知ったクラウスが衝撃を受けていたことを思い出すと、苦しいように息がもれた。女性との恋も数多く体験しているだろう容貌の端整な彼にしてみれば、自分などひどく醜く詰まらなく思えたことだろう。
 沈みかける気持ちにふたをするように、ルクレツィアは枢機卿の笑顔を脳裏に思い描いた。ルクレツィアにはいつも穏やかな、ひそやかな微笑みを見せるだけだった枢機卿が、子供のように楽しげに、ときに詰り、宥め、クラウスの反応を受けては嬉しそうにまた言葉を返していた。
 かのひとは優しく、けれどときおり見せる表情は淋しげで、その淋しさゆえにルクレツィアに対して憐憫と労りをかけてくれている。これまではそう思っていた。もしかしたら、それは自分の思い違いだったのかもしれないと、ルクレツィアはふるりと身を震わせた。
 枢機卿ハビエルはただ淋しいひとなのではなく、あのひとがいないことが淋しかったのではないだろうか。そうであれば、だれがそばにいても、ルクレツィアが案じても、その淋しさが癒されることはない。
 癒されるには、そのひとがそばにいなければならないのだ。
 ルクレツィアは己の力のなさに瞳を潤ませる。
 自分の犠牲のうえに、人々は安寧をえているのではなかったか。
 けれど実際には、もっとも身近で、慕わしく思っているひとさえ救えない。
 この場所にいるだけでいいのだと言われた。燈台代理として、薔薇硝子の塔に囚われたままでいることが役目なのだと言い聞かされた。
 ルクレツィアはやっと、取り囲む壁に刻まれた言葉の本当の意味を理解する。
 いつかだれかがむかえにくる。
 いつかあのひとがむかえにくる。
 あなたにもいつか。
 これは願いなどではない。
 怨嗟だ。
 塔に囚われ、狂いだした巫女たちの嘆きであり恨みなのだ。
 だれにも求められず、だれにも与えられず。
 この世界で、自分ただひとりが闇に呑まれてゆく。
 塔のなかで朽ちていくのが燈代の定めなのだ。
「さびしいのや、くるしいのは、もう嫌なのに……」
 手のひらには冷たい月。
 果てる空にも冷たい月。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。