□■ 燈代のルクレツィア [14] ■□


 たなびく煙のくゆるがごとき慎ましやかさで零れ落ちた白い炎が踊るのを、ルクレツィアは仄かな吐息をついて吹き消した。少女の微笑のような音をたてて弾けるそれが、ルクレツィアにとっては唯一の友人とも言える。そばにいて、なぐさめて、ふれあって、きえゆくもの。
 消えぬものは胸の不安だけだった。なにかに呼ばれているような、なにかを呼んでいるような、叶わぬ望みへの渇きだけが満ちている。
 こんなにも闇は重苦しいものだっただろうか。あたりの闇が濃くなっているのか、ひかりが強くなってきているのか。ひかりと闇の境目に、くっきりとした裂け目が生じているような気がする。
 血を吸った櫛は先日のような禍々しいまでのひかりを放つことはなかった。大人しく、密やかに、まるで嵐の前の静けさというように、迫り来るなにかをそ知らぬ顔でルクレツィアの髪を梳いた。
 やはり櫛がおかしい、と相談するべきだったかもしれない、とルクレツィアは後悔した。まるで櫛そのものが意志を持つ生き物のようだと思い、その想像に首を振る。そんなことを口にすれば、おかしいのは自分のほうだと言われるのではないだろうか。今度の燈台の巫女もとうとう狂いだしたと判ぜられるのではないだろうか。
 りりるら、としたかそけき響きにルクレツィアはびくりと身を起こす。死する炎の叫びに似たそれはしかし、夜半にはあるまじき音だ。水晶と鋼鉄の擦りあわされたかのごとき振動は、塔の扉の開かれる合図である。
 ルクレツィアの喉が緊張に小さく引きつった。この数日の間に、あまりにもこれまでの日常とは異なる出来事が起きすぎている。そしてそれらすべてが、ルクレツィアの胸をざわざわと落ち着かなくさせていた。
扉が開き、伸びやかな影が部屋のなかに差し込まれる。人影は予想したアニシアのものではない。
「どうなさったの、こんなところに二度も来るなんて」
 炎のかけらが粉雪と舞う部屋に闇を率いて現れたのは、全身を黒い衣装で覆ったクラウスだった。最初に来たときと違うのはその訪問が窓ではなく扉からであったことと、草原の民であることを表す頭布が巻かれていないことである。
 前回はなかったはずのクラウスの肩に被せられた黒貂の毛皮が、彼がこれから北方の旅にでることを告げていた。暇を理由に訪れたとも思えず、別れの挨拶に来るほどクラウスとルクレツィアは親しいわけでもない。
 純粋な驚きにルクレツィアがクラウスの姿を確かめるように瞬くと、クラウスはどこか居心地が悪そうに怜悧な風貌を歪めた。
「俺はべつに年増好みというわけじゃない」
「え?」
 呟かれた言葉の意味がわからずルクレツィアはさらに困惑を深める。
「ルクレツィアに魅力がないとか、そういうわけでもない」
 きっぱりと言い切ったクラウスは、すまんと謝ったことで緊張が解けたのか、大きく息を吐き出した。それから怪訝そうな顔をしたルクレツィアにやっと気づき、照れたように頭を掻く。
「驚かせたよな」
「驚いているけど、でも、なにが?」
 クラウスがなにかを謝るためにここを訪れたことはわかったが、あいにくとルクレツィアにはクラウスに謝られるようななにかがあった覚えがない。どちらかといえば、謝るのはこちらのほうではないだろうか。理由も言わせず一方的に責め立て、まるでクラウスが悪人であるかのように振舞った。
「まあ出会いからしてあれだったし、再会もひどいものだったし、あまり優しくなかったと思ってな」
「わざわざそれを謝りに?」
 そうだ、と肯定したクラウスに、ルクレツィアはそれこそ驚いて目を見張った。枢機卿であるハビエルとも遠慮なく口論していた彼が、友人でもない自分に頭を下げるなど思いもよらないことだ。
 だが友人と口論ができるのはクラウスに自分自身を貫こうとする意志があるからで、親しくもないひとに謝れるのは、他人の意思を汲もうという優しさがあるからだ。真っ直ぐで潔いその性分を知れば、ハビエルがあれほどクラウスに心を寄せているのも納得できる。
「あなたが謝るなら私はあなたにお礼を言わなくてはね」
 部屋に椅子がないために、寝台からクッションを持ってきてルクレツィアはクラウスに座るように促した。この部屋では来客のためにお茶ひとつ用意できない。これまでそうしたことがまったく気にならなかったことに、ルクレツィアは落胆した。だれかを迎えるように出来ていないのが、部屋の造りだけではなく自身のこころのうちでもそうだったということだ。
 胡坐をかいて座したクラウスは、ルクレツィアの沈んだ表情をどう思ったものか、苦笑しながら首を捻る。
「俺はなにか礼を言われるようなことをしたか」
「あの女のひとは、ハビエルさまの命を狙ったのでしょう?」
 ハビエルさまを守ってくれてありがとう、と自分自身も絨毯に座りながら言い、ルクレツィアは一抹の悔しさを押さえ込んだ。ハビエルに求められ、明らかに役に立っているクラウスに対する嫉妬は、ハビエルの命の無事の前には小さなものだ。
 ルクレツィアから嫉妬されていると気づいているのかどうか、クラウスはルクレツィアの言葉に驚いたような様子を見せる。それがまたルクレツィアの神経を苛立たせた。
 クラウスは刺客を縛るために使ったせいで、象徴たる頭布のなくなった黒髪をいくらか乱暴にかきあげる。
「気づいていたのか」
「私にだってわかるわ、それくらい。確かにあなたから見れば私なんて世間知らずなのでしょうけれど、教会がきれいなだけの場所じゃないなんてこと、私が一番知っているわ。みんな自分の幸せのためならば、他人ことはどうでもいいと思っている」
 唇を噛めば、その悔しさがクラウスへあてたものか、ハビエルや教会へとあてたものかわからなくなった。
「ハビエルさまは私に心配させないように、いろいろなことを黙っていらっしゃるわ。私が燈台の巫女だから話せないこともあると思うけれど、私が子供だから話せないと思っていらっしゃるなら、子供にもひとを心配する気持ちがあるんだってことをわかっていただきたいわ」
 ルクレツィアが愚痴るように言葉を口にすると、クラウスも同意を示して大きく頷いた。
「あいつはちょっと過保護なところがあるよなあ」
「そうよね」
「俺があいつに会ったのは五年前だが、そのときから扱いが変わってないような気がする」
「私なんて十年もたっているのよ。もうあのころの私じゃないのに」
 ルクレツィアの悔しそうな表情に、クラウスはほんのりと目を細めた。クラウスの過去を写す瞳に、ハビエルに拾われたばかりのころのルクレツィアの姿が浮かんで消える。
 あどけなく怯えきった少女は自分を守ってくれるひとを求めており、美しく成長した少女は己の手でだれかを守ることを求めていた。
「たしかにルクレツィアはずいぶんと育ったし、それはハビエルも認めているだろう」
 だからこそ、あえてハビエルはルクレツィアを子供のごとく扱うのだと言える。もしもハビエルがルクレツィアをひとりの女性として扱えば、教会は婚儀の時期がきたと騒ぎ立てるだろう。強い意志を湛えた瞳も、ゆるやかな膨らみを持つ胸も、ルクレツィアが幼いだけの少女ではないということを現し始めている。
「安心していい。ルクレツィアの容姿は充分に賛美に値する」
 クラウスのため息のわけなどルクレツィアは知る由もなく。
 沈黙が気詰まりとならず流れていく空気に、落ち着かなくも安堵した。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。