□■ 燈代のルクレツィア [15] ■□ |
湖水の静けさを湛えた瞳には蜂蜜を固めたような光沢があるのみで、恋い慕い蕩けるような甘さは欠片もない。鋭く凍りついたそれはひとの世の情を写さないようにも見える。 どうしてこのひとはあんなことを言ったのかしら、と不満に似た思いをルクレツィアは抱えていた。 賛美に値する容姿だ、というクラウスの言葉は、ルクレツィアのこころをほんのりと浮上させた。炎を帯びた金髪や闇を抱えた黒髪の艶を褒められることはあっても、ルクレツィアそのものを指して、これほどはっきりと肯定を示されたことはなかったのだ。 だがその言葉に相応しいであろう感情がクラウスの薄青い瞳からは感じられない。それはただそこにある花を褒めたような、自分とは異質なものへの賛美、あるいは美しいと定められているものへの形式のような、熱情の籠もらないものだった。 お世辞を口にしなければならないような間柄ではないのだし、だとすればただの慰めか、あるいはクラウスの常套句なのかもしれない。そんなものにさえ浮き立った自分が恥ずかしく情けなく、ルクレツィアは己を奮い立たせて背筋を伸ばした。 クラウスに恋い慕われることなどありえない。もしもクラウスが少しでも自分のことを労しく、稚く思ってくれているなら、願いを聞き入れてくれることもあるだろう。だがその瞳は感情のゆたかな口調や表情とはうらはらに、どこまでも冷たく揺るぎない。なにかを為すために、それ以外を切り捨てたひとの瞳だった。 それでもルクレツィアは、無理なことと思いつつ、すがるように願いを口にした。 「旅に出るのを遅らせたり、止めたりすることはできない?」 「ルクレツィア?」 クラウスが困惑して首をかしげるのは、ルクレツィアにも予想のうちだ。 彼はいま、あれほどに仲の良いハビエルとさえ別れて旅に出ようとしているのだ。ましてや自分など、クラウスの視界にきちんと入っているのかどうかさえ危うい。ハビエルですら引き止められぬひとを、どうすればここに留めておけるというのだろうか。 それでも、ルクレツィアは諦めるわけにはいかなかった。 「ハビエルさまのそばにいてさしあげることはできない?」 ハビエルの淋しげな微笑などもう見たくはなかった。知らずにいたのならそのまま目を瞑って気づかぬふりもできたが、解決策があるのに手を拱いているわけにはいかない。 「クラウスがどんな旅をしているのか、どうして旅にでないといけないのかわからないけれど、もし行かなくてすむものならここに居て欲しいの。あなたがいないとハビエルさまは淋しいのよ」 本当は、こんなふうに言葉に出しても意味がないとわかっている。否、もしクラウスが言われなければわからなかったというのなら、ルクレツィアはその頬を引っ叩いてしまおうと決めていた。 わかっていて、それでもなお離れていこうとするなら、そのわけが知りたかった。 きらきらと新緑の瞳を輝かせて問いただすルクレツィアに、クラウスはしばし逡巡して己の膝の上で考えるように指を遊ばせる。説明するつもりがないのかその言葉がうまく紡げないのか、沈黙はルクレツィアの意志を侵食する重さで満ちた。 「ここに囚われているのは辛くないか?」 影さえ落ち着きをなくすほどの時間をおいて、クラウスの呟きがひそりともれた。 その問いかけにルクレツィアは緊張をといて小さく息をはく。 「もちろん面倒だし、厄介なことばかりよ」 こんなことを答えたと知られれば、アニシアあたりにはまた眉をひそめられることだろう。それが可笑しく、ルクレツィアは当然とばかりに声をたてて笑った。軽やかなそれが唇からこぼれるのを華奢な手のひらで抑えると、あたりに散らばった欠片を探すように目を伏せた。 「ここにいてなにが嫌ってね、淋しいことだわ。だれにも会えないし会いたいひとさえ思いつかないの。ここにだれもいないだけじゃなくて、私のこころのなかにもだれもいないの。それはすごく淋しいことよ」 この部屋にいて、これほど躊躇いなく笑い声をあげたのは初めてだった。修道女たちも信仰心厚い民衆も、巫女としての役目を果たすことだけをルクレツィアに望んだ。巫女が塔にいることは当たり前のことであり、塔に囚われていることが辛くはないかなどと、心情を問われたことなどなかったのだ。代価とばかりに捧げられる感謝の言葉は幾度も重なり、ルクレツィアのこころと身体を縛り上げる。 「だれかに会いたいと思っているひとがいるなら、無事な姿で会わせてあげたいの」 そう願うのは真実、自分自身の願いなのか。そう願わされているのか。その判断はもはやルクレツィアにもつかない。 「だって私、そのためにここにいるのだもの」 それだけが、ルクレツィアを塔に留め、意志を支えるすべてだった。 悩みのもとであり、誇りの礎である言葉を紡ぎ、ルクレツィアは伏せていた眼差しをあげて微笑む。不思議と、いつものように苦しいような悲しさがなかった。 クラウスはその微笑みを避けるようにわずかに視線をそらし、そのまま勢いよく立ち上がる。かちゃり、と腰に下げた剣と銃が触れ合った。 「ならば俺がこの旅から戻り、ハビエルにまた無事に会えるよう願ってくれ」 引き止めることができなかったことにルクレツィアは少しだけ落胆し、癖のあるクラウスの黒髪を眺めてはたと思い立った。 「待って」 自分も立ち上がると、ルクレツィアは寝巻きを縛る腰の帯をさらりと解く。あくまで装飾の一部として使われている幅広のそれは、銀地に青糸で紋様の織り込まれたやわらかなものだ。 「これをあげるわ」 差し出したあとでクラウスの困ったような表情を目にし、ルクレツィアは自分の行動の大胆さに気づいた。幅広の帯の下に装飾のない細い紐があるため寝巻きが着崩れることはないが、男性の前でしてみせる格好ではない。 「あなたの頭布はハビエルさまのために使ってしまったのでしょう? だから、これを変わりに」 慌てて説明したが、どうしても語尾が小さくなる。 うろたえるルクレツィアに、クラウスが目を細めて笑った。その一瞬だけ、凍るような青い瞳が和らぐ。 「俺がいないあいだ、ハビエルを頼む」 帯を受け取ったクラウスはそう言い添え、慣れた手つきで頭に布を巻きつけた。黒装束のクラウスに銀白の布は華やかだったが、似合わぬというほどでもない。 安堵して微笑むルクレツィアのまわりで嬉しそうに白金の火花が踊った。軽やかにあたたかなその黄金の髪を、お礼とともにクラウスが撫でようと手をのばした途端、それに気づいたルクレツィアが怯えたように一歩後退りする。火の粉が追うようにあたりに散った。 「だめよ」 実際、ルクレツィアは怯えていた。 この身は触れてくれる相手を傷つけるのだ。 そうなれば傷つくのは触れたそのひとだけではない。 身体を縮み上げるルクレツィアの様子にクラウスは痛ましげに息をはき、舞い散るひかりの欠片だけを手のひらに掴んだ。 「炎は清浄な大気がなくば燃え上がらぬものだ」 手のひらに浚われた炎は蛍火のごとく仄かに揺らぎ、この世から去りがたいと告げるように、名残惜しげなまたたきを零してふわりと消えた。 「ルクレツィアが闇に飲み込まれぬように祈っている」 炎を見送り、身を翻す去り際のクラウスの声は低く、ルクレツィアの胸に深く響いた。 まるでその胸にこそ灯火が燈るように。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。 |