□■ 燈代のルクレツィア [17] ■□ |
銀の蝶はまたたき、銀の粉をふりまく。 美しさに見上げれば足が止まり、ふと足元を見やれば脛に絡まる蛇のごとく迫る雪に覆われている。散るさまは儚く、積もりゆけばたちどころに凍りつくそれらに、クラウスは何度となく歩を妨げられた。 川沿いを歩くのは、目印なしに森をさまようことがあまりにも危ういからだ。だが、いまはその判断さえも正しいことであるのかどうかわからなくなっていた。 木々の針の向こうに、青白く光る柱が見えている。ときおりは柱に掘り込まれた蝙蝠の紋様さえ見えるほど近くに、たいていはただの氷の柱としかわからぬ遠さで、どの木よりも高く、雪雲さえ突き抜けてそれは立っていた。 「どう考えてもあの柱があやしいと思うんだがな。ハビエルのやつ、森に行けとしかいわなかったが、もう少しくわしく調べられなかったのか」 ぶつぶつと文句を口にするのは、そうでもしないと寒さに耐えられないからだ。こういうとき、心置きなく罵ることの出来る相手がいるというのはいいものだ、とクラウスは固まりかける息を吐いて苦笑をもらす。 だがいくら悪態をついたとて、物事が改善されなければ意味がない。 あきらかになにがしかの呪いがかけられている森だった。方向感覚が失われると、時間の感覚も曖昧になる。兎を捕まえて食べたのがもう随分と前に思えた。こころなしか、最初は視界のすみにときおり横切った動物たちの影が消えている。 大気から溢れるように氷の粒が生まれ、クラウスの首筋をちりちりと赤く冷やした。 「緋粋、どう思う」 「毛皮があってよかったと思うが、足が四本あるのはいただけないな」 なるべく全部の足をつけないように、すこしでも足早に歩こうとする緋粋にクラウスは解決策を訊ねることをやめ、自分も身体が温まるよう大またで足を進めた。 「そうか、これ以上寒くなればおまえの毛を剥ぎ取るという方法があったな」 「言っておくが、野生の熊が人間を襲うのは人間という種族が鹿や兎に比べて足が遅く、毛が少なくて食べやすいからだぞ。どうしてクラウスを襲いもせず大人しく付き従っているわたしがそんなめにあわねばならない」 不敵な笑みが鋭い牙のあいまからこぼれ、慣れたものとはいえクラウスの背にも緊張が走る。普段は忘れがちだが、緋粋とて柘榴狼なのだ。あの闇の魔物と同じ生き物の。 「そろそろ話してくれてもいいと思わないか」 「わたしがいつクラウスを無視した?」 「そうじゃない」 切り出すたびに返される悠々とした軽口に腹立たしさが沸き起こったが、いつものように癇癪を起こして煙に巻かれてしまわないよう、クラウスはあたりの寒さに意識を向けた。話していないと凍えてしまいそうになるが、無為に言い争いをして体力を消耗するのは賢いやり方ではない。 「そうじゃない、わかっているだろう。どうして闇の魔物は緋粋を狙う?」 これまで幾度も訊ねかけ、そして訊ね、そのたびにかわされてきた問いだった。その確執を隠したまま、噂と足跡と残り香を追うだけの旅を続け、緋粋はただ時期が来ればわかるといい続けていた。闇の魔物を追うことは、ひとびとの無残なる死を追いかける旅である。血と腐臭の跡を辿り、次に現れる場所を予測して動く。そもそもその存在自体、ひとの間ではあまり知られていないのだ。住処が決まっているのかどうかさえわからなかった。 「あいつは、なにが目的なんだ?」 「さてな……あいつがそれをわかっているのかどうかがわからん」 「緋粋」 怒らない、と決めたがどうしても緋粋のなにかもったいぶった物言いには苛々とさせられる。クラウスにとって緋粋が祖父の敵討ちの相方であるなら、自分は緋粋にとってのそれであるべきだとクラウスは思うのだ。 たしかに寿命も能力も違う種族同士で、柘榴狼から見た人間など、頼りになるような存在ではないのかもしれない。だが、緋粋にとってのクラウスという存在が、いつになっても認められないままなら、共に旅をする意味などないように思える。 「おまえから見れば俺などまだ子供なのだろうが、俺が子供だというなら、それを育てるのが大人であるおまえの役割だろう。なにを案じて俺を囲うのかわからないが、辛さや憎しみを超えたところにも感情が生まれるということぐらい、俺にもわかるようになったぞ」 クラウスは手を伸ばして黄金の背中を促すようにやわらかく叩いた。 これまでクラウスは詰問するようにしか緋粋にそれを聞けなかった。話さない緋粋の不実を責め、ふたりの間でのたいていの喧嘩はそのことに由縁していた。だがいまは、この大きな黄金の獣のこころが、とても繊細に出来ていることを知っている。 「そろそろ話せよ」 「やれやれ。クラウスに諭されるような日がくるとはなあ」 わたしも歳をとるはずだと呟いてから、緋粋がその首を甘えるように隣を歩くクラウスへと摺り寄せる。甘えはどこか誇らしそうでもあり、辛さを押し隠すようにも見えた。 緋色に燃え上がる瞳の温度が、ほんの少しばかり冷ややかな、悔いを孕んだものへと変わる。話し始める前の沈黙は雪に埋もれて重く、躊躇はしかし吹雪に浚われていった。 「わたしが緋粋という名でクラウスに仕えるずっとまえだ。当時はヘルムート、と名乗っていたかな。意図したものではなかったが、結果としてあいつの恋人を奪ったことがある」 「それは……仕方なくはないか?」 「いや……奪うというのは卑怯な言いかただな。殺してしまった、と言えるかもしれない」 その罪を告白する緋粋の声は常ならず震えていた。普段ならば落ち着いて朗々とした、力に満ちた話しぶりの緋粋が、声をつまらせてうなだれる。 「あいつが、わたしに復讐を誓うことこそが、仕方のないことだと思う。だが、そう易々と復讐されてしまうわけにもいかなくてな」 再び顔をあげた緋粋の表情は決然として、その瞳もまた赤く燃え上がっていた。 「わたしにも守りたいものがある」 「俺にもある。その守りたいもののなかに、おまえも入っている」 微笑を寄せたクラウスに、緋粋が嬉しそうに目を細めた。 「クラウス……」 面映そうな様子の緋粋の黄金の毛並みをクラウスは撫で、手のひらから伝わるぬくもりが暖かなことを、こころのうちでのみ感謝した。この強く優しい生き物がいなければ、とうに自分は旅をやめていただろう。それがうまく伝わればいいがと願った。 「ところでクラウスの頭が燃えているような気がするんだが」 「なんだと……?」 緋粋への信頼を深めていたクラウスは、緋粋のその言葉に一瞬なんのことを言われているのかわからなかった。 「熱くないのか、それは」 重ねて言われればクラウスもその意味を理解し、慌てて頭布を剥ぎ取った。 「そういうことは早く言え」 燃えているというその理由は定かではないが、確実に緋粋への憤りと不信感は増した。 こいつのこういうところが信用ならない、と眉をひそめて外した頭布はルクレツィアから渡された帯だ。さすがに本当に燃えていればその熱さにクラウスも気づく。眩いひかりを放っていたのは、頭布に巻きついていた一筋のルクレツィアの黄金の髪だった。 「ルクレツィアの髪の毛だな」 ゆらりと燃え上がるそれは棘刺すような仄かな痛みをもって指先に踊り、舐め上げる火の粉が雪の結晶を砕いては蛍火のはじける音色を響かせた。解かれた白き炎があたりを照らし、それまで雪と暗闇に紛れていた景色を鮮明に浮き上がらせる。 白樺ばかりが目に付いていたあたりの木々に、新たな種が加わってその森の姿が変貌した。銀めいた雪に覆われる世界でしかなかったそこに、青く力強い松が現れる。 折り重なる松の枝は凍りつき、枝から垂れ下がる氷柱によって木々の下に氷の洞窟が出来上がっていた。川沿いから離れ、誘い込まれるように踏み込んだクラウスの後ろで、どさりと鈍い音がする。 「緋粋?」 連なる氷柱のいくつかが次々と砕け落ち、それを避けたクラウスと緋粋のあいだでその入り口は塞がれていた。 「進むしかないだろうな」 さくり、と踏みしめた霜柱だけがその声に答える。 引き離された孤独にクラウスはそつと身を震わせた。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。 |