□■ 燈代のルクレツィア [18] ■□


 ゆるやかに呼気をもらすと胸に当てた手が大きく上下する。零れ落ちた吐息は花片を舞い散らすほのかな風を生み、梳られた髪の先で踊る黄金の炎とともに大気へと溶けた。眩さは咲いて散る花のごとく鮮やかにして脆く、ルクレツィアをそつと取り巻いて包み込む。
「昼が昼であるように、夜も夜であるだけなのよ」
 その呟きは清々しく力に満ちた声で紡がれる。鏡に映る己の夜の姿を見てもルクレツィアはこれまでのように眼を伏せることなく、まるでその事実さえ喜ばしいことであるかのように微笑むことができた。
「同じように、私は私なんだわ」
 これほど簡単なことがわからなかった自分が可笑しく、気づいてからのこころのゆとりを感じればそれまでの苦しいほどに追い詰められていた日々に呆れ返るばかりだった。
 昼の自分は求められておらず、夜の自分だけが意味のあるもの。そう考えていたときは、燈代の責務として炎を求められるたび、冷ややかな淋しさが募っていた。だがいまは違う。
「昼であっても夜であっても、私がここにいるかぎり、あのひとはここに戻ってくるのよ。炎が燈台なんじゃなくて、私が燈台なんだもの」
 ルクレツィアの髪を梳る手が、その炎を慈しむように優しげなものになる。だれかを待つということが、これほどまでにこころの華やぐことだとは知らなかった。
 しゃるりる、と軽やかな音とともに開いた塔の扉の向こうにアニシアの姿を認めても、ルクレツィアの微笑みが途絶えることはなかった。
「アニシア、どうかしたの?」
 いつもなにか痛みを耐えたような表情のルクレツィアがそうして朗らかに迎え入れるのに、アニシアのほうが戸惑った様子を見せていた。
「なにか良いことでもございましたか」
「そうね、あったわ。でも、嬉しいことや楽しいことは、自分が気づきさえすればいつでもどこにでもあるものなんだわ」
「それはようございました」
 浮き立つまま素直に言えば、驚いたことにアニシアの表情も温かい微笑で彩られた。
 それに励まされるように、ルクレツィアはいつもどおり寝巻きだけを手にするアニシアに恐る恐る提案を試みる。
「あのね、もしよければ、お茶を飲みながら少しお話をしたりすることはできない?」
 アニシアの瞳が大きく開かれたのを見たルクレツィアは、やはりそれは無理だったかと肩を落とす。そもそもこれまで頑なな態度をとり続けてきたのは自分のほうなのだ。自分に余裕が生まれたからといってすぐにそれを打ち明けても、気まぐれの所作にしか見えないだろう。あるいはそれはわがままと受け取られるかもしれない。
「お休みまえになにかを召し上がるのはあまりおすすめできませんけれど……」
「そうよね」
 あまりにも考えの浅い己の行動を思い返し、ルクレツィアが恥ずかしさに顔を赤らめると、アニシアから予期せぬ返事がもたらされた。
「ちょうど香りのよい金木犀のお茶が手に入りましたから、それをご一緒させていただきます」
 お待ち下さい、と言って、寝巻きを寝台に置き部屋を出て行ったアニシアの背中を、ルクレツィアは半ば呆然と見送った。そっけなさはあいかわらずだったが、意地になって虚勢を張っていたことがつまらなく思えるほどに、アニシアはあっさりと誘いに乗る。
「お持ちします、ではなくて、ご一緒します、って言ったわよね……」
 残された部屋で、確かめるようにルクレツィアはひとりごちる。
 その言葉は、アニシアが戻ってきたら、ふたりでお茶を飲みながら話をするという、年頃の少女であればだれもが当たり前に為される約束を意味していた。
「感動のない日々なんてないんだわ。感動するこころをなくしてしまった日々というのがあっても」
 自然とこみ上げるこそばゆい喜びに、ルクレツィアはまた新たなる発見を己のこころのうちに見いだし、きらきらと瞳を輝かせた。
「クラウス、早く戻ってこないかしら」
 俺がいないあいだハビエルを頼むと、約束を残して出かけていったクラウスの、炎は清浄な大気がなくば燃え上がらぬものだという言葉が、ルクレツィアの淀み、鬱としていた気持ちを晴れやかなものにさせていた。クラウスにとって、炎はあくまでもルクレツィアに付随するものでしかなく、ルクレツィアなくしてはありえぬものなのだ。だからこそクラウスは燈台の炎ではなく、ルクレツィアにこそ無事に戻ることを願ってくれと頼んだ。
 燈台の巫女としてではなく、ルクレツィア個人としてだれかの帰りを待つのは初めてのことだった。
「闇なんて怖くないわ。陽のひかりだってそう」
 陽の出を告げる刻がくるたび、己の役目たる燈台のひかりを易々と攫っていかれることに怯えていた。黄金の炎を奪う太陽のひかりをうらみもした。
 けれどいま、ルクレツィアにとっては昼も夜もかわらない。
 すべてのときはクラウスと別れ、クラウスが約束どおり戻るまでのあいまにすぎない。
 手のひらのなかの炎を生み出す櫛に視線を落とした。
「私に食らいつくつもりなら、そうすればいいわ」
 ルクレツィアは青褪める櫛に向かい、クラウスがかつて従える柘榴狼に名づけたがごとく、魂を支配下に置くまじないを込め、脳裏のみにて古代神聖文字のつづりを当て嵌める。
「……コクヨウ」
 それはもはや恐れるに値しないもの。
 刻陽、と呼びかけた。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。