□■ 燈代のルクレツィア [19] ■□


 影ならば木漏れ日を写す大地にあり、輝きならば照り返しを漣なす大海にある。
 ゆるゆるともちらちらともつかぬ風情であたりに舞い散る氷に阻まれながら、クラウスは氷柱に追い立てられるようにして雪洞の奥へと進んだ。恐れはあったが、それは怖気づいて蹲るようなものではない。漏らした吐息さえすぐに凍りつくような、骨に染みいる寒さのなか、ルクレツィアの暮らす燈台によく似たつくりの螺旋階段を登り、現れた扉をしゃりりと霜を踏みしだく音をたてて開く。
「このさきに待つのが魔物でないことを祈るのみだな」
 触れるだけで動いたそれは胸のうちの不安ほどには重くなく、開けた空間は呟いたクラウスの躊躇いを焼き尽くす眩さをその場にもたらした。
「ついた、のか」
 雪洞の終着と知りクラウスが安堵した瞬間、扉の向こうにあった広間から氷でできた蝶を思わす雪の結晶が、刃の鋭さでクラウスに襲い掛かった。
「……っ」
 だが咄嗟に両腕を交差してクラウスが身体をかばうと、すぐにその勢いが嘘であったかのごとく、巻き取られる緞帳のような静けさで氷の蝶がふわりと退いた。
「なんだ……ああ」
 いぶかしむクラウスは己の手にあるものに気づき、掌にそれを握り締めたまま、そつと軽く口付ける。掌のなかでは、これまで雪洞を歩いていたときと同様、クラウスを氷から守るようにルクレツィアの黄金の髪が煌々と燃え盛っていた。
 クラウスは息を整え、しっかりと顔を上げて広間へと一歩、足を踏み入れる。
 ルクレツィアのもとに戻らねばならないという思いは、新たな力となってクラウスの四肢を支えた。闇の魔物を追いかけ、打ち滅ぼすことだけを考えていたときの、苦しいだけの思いとは違う。誰かを守り、救うための一歩だった。
 十重の雪、二十重の氷。
 波間の揺らぎのあやうさで舞う氷の蝶は広間にて、銀めいて青々とした蜘蛛の巣に絡め取られていた。否、そのひとが蜘蛛なのか、あるいはこの世でもっともうつくしい蝶であるのか。氷の女王であろう君が、広間に張り巡らされた氷の糸で作られた、大きな蜘蛛の巣の中心に座していた。
「先の法王クリストフェル=ロビニアスが嫡孫クラウス=ティルガ。氷の女王にはお願い致したき儀があって参上した」
 膝をつき、掌を重ね覆わせて拝礼する。
「もしも貴女に慈悲のこころあらば、ひとりの少女のために貴女の持つ氷の鏡を貸し与えたまえ」
 クラウスは朗々と恐れることなく宣したが、まるでその声など聞こえぬというように氷の女王はみじろぎひとつしない。その身体そのものが氷でできているかのような冷ややかさに、焦れたクラウスが立ち上がり歩を詰める。
 勿論、己の要求がそうやすやすと聞き届けられるとはクラウスも思ってはいなかった。ひとの訪れを拒むように雪に閉ざされた氷の城で、ただひとりひっそりと暮らす魔女という存在の対応が、降りしきるその雪のごとく冷たいものであろうことは予想のうちだ。訪れるものを迎え入れる気配はまったくなく、生き物の温かみや華やかさが失われている。
 自制を命じつつそれでも苛立ちが溢れるのは、この城の様子がひどく薔薇硝子の燈台に似ているせいだった。煩わしさゆえか視線さえクラウスに向けぬ氷の女王のこころが、この城のごとく凍りついてしまっているのだとしたら、ハビエルから託された、ルクレツィアへのわずかな救いさえ奪われてしまうことになる。そして遠からず同じようにルクレツィアのこころも凍りついてしまうだろう。
 それだけはどうしても防ぎたかった。
無くしてしまった頭布の代わりにといって帯を差し出したルクレツィアの優しさが、誰かのためになるなら自分の望みなどどうなってもいいという健気さが、押しつぶされ顧みられずにいる燈代の責務など、なくなってしまったほうがずっといい。だが何も言わずさらうことも考えて、旅立つ前に塔を訪れた夜、責務に対するルクレツィアの覚悟を聞いてしまえばそれもむりだった。己のみがすべてを捨てて逃げ出すことなどできぬ頑なさゆえに、ルクレツィアの炎はこれほどに眩いのだ。
 指先で明けゆく黎明よりも白く燃え上がる金の髪を、クラウスは強く握り締める。
 諦めるわけにはいかなかった。
 決意を込め、睨むように鋭い眼差しでクラウスは蜘蛛の巣の女王を見上げる。そのクラウスの耳にふと、それまでの静謐とした沈黙を破り、どこからとなく高音と低音の入り混じる囁きが吹き込まれた。
「慈悲とな」
 虚ろな表情の氷の女王の手が、腰掛ける蜘蛛の巣を竪琴を奏でるようにはじくたび、その妙なる調べはクラウスの耳を打った。あたりの氷がその声が響くたび煌いて揺れる。
「わらわが居城にことわりもなく踏み込み、己が要求を突きつけるだけの不逞の輩の口から、そのような言葉を聞こうとは思いもよらぬ」
 きいきいと蝙蝠の鳴くような、はたはたと鷺の羽音のような、不確かにしてどこまでも冷ややかな声がするりとクラウスの脳裏に入り込んだ。
 ひとならぬ生き物である証なのか、氷の女王の肌はうちがわの静脈が透けるほどに青白く、空に浮いて座す身体から床を掃いて流れる髪は、瞬くたびに目を射す月光を思わせる冴えた銀である。美しくはあったが、表情のない顔立ちは生命というものを感じさせない。
「わらわには慈悲はない」
 告げられる言葉はその声以上に冷たくすげないものだった。
「女王」
「そなたが求めるは過去の名残よな。気づかぬならば愚かなりしと笑うのみゆえ」
 氷の女王が初めて見せた表情はクラウスを侮る微笑みであり、その唇は弓張の月がごとく歪められた。ほほ、と高らかに響く笑みに氷の蜘蛛の巣がゆらりと揺れる。
「疾く、往ねよ。さればわらわもあえて咎めはせぬ」
 ようやく投げかけられた視線は鋭く、クラウスは背筋を駆け抜ける戦慄にひととき息を詰めた。だがすぐに己を奮い立たせるように掌の黄金の炎を胸に押し当てる。
「咎めがあるのはとうに承知。だがそれを故に俺の願いを退けることはできないものと思われよ。わが身を縛るは己がこころのみ。他者により命じられた戒めなど、言葉ひとつ、行為ひとつにて破棄せしめしもの」
 胸に燈るルクレツィアの願いと、銃に込められたハビエルの救い、そしてロビニアスへの悔いが、クラウスの薄青い瞳に力を与えた。
「願いは叶えるために、慈悲とは与えるためにある」
 どれほど冷たく、凍えるような空間であろうと、こころの炎を吹き消すことはできない。
「氷の女王よ、炎の女王より残された戒めにより、献身を求められし少女を救いたまえ」
 炎と燃えるルクレツィアの髪を、クラウスは氷の女王へと差し出した。
 揺れる灯火を見つめる氷の女王の瞳にも、その炎の影が映し出される。
 星の瞬きのごとく、散る木の葉のごとく、未来の暗示のごとく、過去の反芻のごとく。
 ルクレツィアの凄絶とした決意の現れである炎を前に、そ知らぬ顔をしていられるものがいるはずがないとクラウスは思う。それは自分がそうであったようにだ。
 女王の瞳になにかを懐かしむ色が浮かび、はりりと水晶を砕いたようなうつくしい音色で蜘蛛の巣が震えた。
「ではわらわに慈悲を求めるその愚かさに賭けて、わらわはそなたに取引を命じよう」
 平坦で素っ気無い口調はそのままながら、どこか柔らかさを含ませた言葉に、クラウスは感謝を示して深く頭を下げた。
「俺にできうることであればなんなりと」
「わらわの慈悲はすでにわが恋人に与えし。されどわが恋人は呪いによりて失われし。呪いをかけたる魔物のかけらをわらわは求める」
「魔物のかけら」
 鏡に代わり、求められたのは魔物のかけら。
 それがもし、己の知るそれであるならば、とクラウスは息を呑む。
 脳裏に浮かぶのは、ルクレツィアを燈台に縛り付ける櫛である。闇の魔物のとある部位から作られたものだと、ハビエルが言っていたはずだ。あの櫛の代わりに鏡が得られるなら、ルクレツィアは塔から解放されたも同然だった。
 呆然と、しかし期待を込めて、クラウスは女王のさらなる言葉が紡がれるのを待った。
 そして蜘蛛の巣から氷のかけらが零れ落ちる。
「闇の魔物と呼ばれし炎の女王がしもべの、呪いの形代をわらわは求める」


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。