□■ 燈代のルクレツィア [20] ■□ |
天翔ける雁の滑空する鋭さでクラウスは氷の階段を駆け下りる。 暗き洞窟は禍々しい歌を響かせながらクラウスを外へと吐き出した。 森はもはや敵ではなかった。氷もすでに仇なすものではなかった。雪はといえばさながら先行きの幸いを指し示すかのように、ざわめき騒ぐのをやめて莢かに去っていた。 氷柱に映る己の姿の歪みだけがクラウスにふとした不安を抱かせたが、瞬きをして杞憂にすぎぬと一笑に付す。いまさらなにを思い煩おうというのか。氷の女王の助力は得られ、ルクレツィアは燈代の責務から時を移さず解放されるはずだ。 だが不安というものが、えてしてひたひたと忍び寄る招かざる瑕疵の予兆であることを示すかのごとく、氷柱の垂れ下がる松の枝葉の洞窟を走り抜けたクラウスの眼前に、信じられぬ情景が広がっていた。 「緋粋!」 叫ぶ声が、深閑とした森に轟く。 雪のなかに蹲る、緋粋の身体を覆う黄金の長い毛が重々しく赤く染められていた。 それは夕陽の、椿の、燕の舌の、血の色の赤だった。 その情景はかつて見たそれと酷似している。 血溜まりのなか、蒼い顔で倒れこんだロビニアスと、ただ呆然と立ち尽くしていた自分。 這い上がる嫌悪感を押さえつけ、クラウスはすぐさま両足に力を込める。取り出し構えたのはベルトに括り付けていた祖父ロビニアスの銃だ。青く磨かれた砲身の艶やかさは優美さを漂わせる。真摯な意志を顕現させるそれを正面に構え、息を整えて照準を合わせた。 白じろとした雪原に、異端なることを際立たせる漆黒の姿。 それは石炭の、墨の、鴉の羽の、闇の色の黒だった。 その毛並みは緋粋の持つ黄金の絨毯のような印象とは異なり、柔らかみや温かみの感じられない、鋭利な鋼の針を思わせるものだ。 記憶のなかで、その闇の魔物がひどく大きく思えていたのは、己が小さかったせいなのか。腰に下げた長剣も、当時は手にしていなかった。剣を携え、振り上げても体勢を崩さぬように、初太刀に続けて剣戟を繰り出せるように、鍛錬してきた日々が思い出される。 辛さは、憎しみだけがもとになっていたのではない。魔物に対する憎悪を凌駕するかのような嫌悪は、己のなかの弱さへとあてられている。なにもできなかった幼かった自分への悔しさが憎しみを燃え滾らせ、辛さを募らせていた。 ぐったりと伏していた黄金の毛が触れ合って静かな音色を奏でる。 すると、その身体に降りかかっていた血糊が勢いよく雪原へと払われた。 太い四足でしかと立つ緋粋の姿と意気に安堵する。 「緋粋……」 苦しげに寄せられていたクラウスの眉がわずかに緩んだ。 ほんの数歩先で、ほぼ同じような身体を持つ獣同士は低い唸り声を響かせながら対峙している。その様子から、すでに幾度か牙と爪での争いがなされていることが知れた。 二匹の獣が、クラウスに気づいているのかどうかは測れなかった。いつも余裕めいた軽口を叩く緋粋にしても、いまは視線を魔物からそらすことなく、現れたクラウスに声をかけるでもない。 踏み荒らされた雪原に飛び散る禍々しい血痕は緋粋だけのものではないようで、獣同士のぶつかり合う音が鈍く響くたび増えていった。 その緊張にクラウスは唇を引き結ぶ。 大気のなかを稲光が駆け抜けていくように、張り詰めた雰囲気のなか押さえつけた高揚が走る。 そして躊躇うことなく銃の引き金を引いた。 「緋粋、避けろ」 その声は放たれた銃弾よりも鋭く、獣の身体を跳ね上げた。 他の生き物と同様に、撃たれた漆黒の獣の足からは赤い血が流れ落ちる。だが、ぎゃう、という叫びは虐げられた苦痛ではなく、致命傷とならない侮りへの怒りに満ちていた。 反動に逆らわず銃口を空に向けたクラウスがひとつ息を吐く。 「あのときの足の痛みをそっくり返すぞ」 火を放った銃の熱い感覚がクラウスの掌に伝わり、祖父の銃がやっと役目を終えたことを理解する。硝煙が消えていくのを待たず、クラウスはその銃をまた腰のベルトに戻した。 その手で今度は剣を鞘走らせる。 ここからは自分自身の気持ちとの戦いだった。闇の魔物を追うことを決め、そのために緋粋と旅を続けてきた自分の、決意の結果がいまこの瞬間なのだ。 剣を握る手に力がこもる。柄にじわりと汗が染みた。深い雪に足を取られつつ距離をつめる。そう遠くはない。この剣を叩き込むまでのこれまでの苦難の年月に比べれば、この距離など長くはない。気迫が駆け出した勢いとなってその速度を上げる。 闇の魔物の口が、ごうとあたりの大気を吸い込むように開かれる。黒い身体のなかでさらに不吉な色を帯びた瞳が、この世のすべてを恨みと想うかのような陰鬱さでぎらぎらと燃えていた。舌は口腔の残酷さを示して赤い。その牙の赤が、緋粋の血によるものだという事実にクラウスの顔が歪む。 「私怨だがな……」 怒りとともにクラウスは剣を突き出す。 「散った命にわびろ」 低い体勢で踏み込んで突いたあと、その下からすくいあげるように剣を繰り出した。 その首をもらった、とクラウスは確信する。 だが、ふいに割って入ったクラウスの動きに惑わされることなく、闇の魔物はひらりと獣特有の身の軽さでそれを避ける。後ろに引き下がるのではなく、クラウスの頭上を飛び越えた。 そして、ふと静止する。 開いた口はそのままに、なにかを聞きとがめ、なにかに呼ばれたかのように首を捻る。 その機を逃さず、緋粋がその牙で魔物の首元に食らいついた。 よろめきはしたが、魔物はその攻撃さえ煩わしいというように、ふわりとした跳躍を見せる。それから後も振り返らず、クラウスと緋粋への興味などなくしたかのごとく、晴れた空に駆け上がった。 「待て……っ」 風に乗って駆け出した柘榴狼を捕らえられるわけもなく。 置いていかれたクラウスが遠くなる黒い影に向かって叫ぶ。 しかし当然それに返る返事はない。 「逃げたのか」 「違うな」 すぐそばで赤い瞳を剣呑な形に細めた緋粋が低く唸った。 「呼ばれたか、引き寄せられたか」 「なに?」 「獣を従える方法はクラウスも知っているだろう」 荒い息で言う緋粋のどこか焦ったような確認に、クラウスは無言で頷いた。 いまさら問われずとも、クラウスはすでにそれを行っている。 魔力を持つといわれる古代神聖文字で、この獣に緋粋という名前を与えた。その契約の証に、クラウスは緋粋から過去を見る魔力を瞳に授かったのだ。だが、クラウスが神獣たる柘榴狼と契約をかわすことが出来たのは、緋粋のほうに、それを受け入れる気持ちがあったからだ。本来、神獣や精霊と契約をかわそうとするなら、それに付随するなにかを用意せねばならないはずだった。 氷の女王が闇の魔物のかけらを求めるのも、従わせたい相手の痕跡を宿すものを所有することで、魔物を意のままにする契約を突きつけるためであろう。 そしていま現在、あの闇の魔物の爪から作られたとされる櫛を持つのは。 「追うぞ、緋粋」 闇の魔物を目の前にしたときよりも強く、恐怖と焦燥がクラウスを襲う。 これ以上、なにかを背負う必要はないのに、と悔しさが湧き上がる。 彼女が、魔物を呼び寄せたその意図や気持ちがわからないいま、クラウスはなにも説明をしてこなかった自分をこころのうちで罵った。ハビエルがなにも話してくれないと悔しそうに話し、ただ囲われて守られるだけの生き方はしたくないと、強い瞳で言っていた彼女の笑顔が脳裏によぎる。 無事でいてくれ、とただそれだけを想った。 魔物の向かったさきが、燈代のルクレツィアのもとであることは明らかだった。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。 |