□■ 燈代のルクレツィア [3] ■□


 いつもならば天蓋に刺繍された茨の紋様を追うだけで眠りが訪れる。
 何度目になるかわからない寝返りを打つことに飽き、ルクレツィアは諦めてゆっくりと寝台に身を起こした。こんなにもたやすく不安に飲み込まれてしまう自分の弱さに嫌気がさす。まどろみ始めるたびになにか悪い夢に引き込まれるような予感がし、襲う四肢のこわばりを振り払うべく幾度となく寝返りを繰り返していたのだ。
 ルクレツィアはやわらかな胸の奥で鳴る鼓動に手をあて、少しでもその高鳴りを抑えるべく息をついた。
 目の前にいるひとがふいに消えてしまうことへの恐れはこの世に生きるひとすべてが等しく持っているものだ。だからこそ愛しいひととは離れがたく、離れているあいだはその無事を強く願う。そしてその祈りが形となったものこそ、この燈台なのだ。どれほど遠くにあろうとも、ひかりを辿り愛しいひとのもとへ戻れるように。
 たとえそばにいてあれこれと世話をやいてくれるひとが変わっても、ルクレツィア自身の暮らしそのものは変わらない。この塔のなかにいるかぎり自分は夜を照らすひかりでありつづける。自分のためでなく誰かのために。
 これらは、燈台の巫女あるいは燈台代理として生きることを決めたときに、ルクレツィアを孤児院から引き取った枢機卿が話してくれたことだった。
 ただ生きるのではなく誰かのために生きてこそ、ひとはひととしての喜びや悲しみを味わうことができるのだと。
 ルクレツィアは少しばかり落ち着いた胸のざわめきに仄かに微笑み、そろりと寝台から素足を床に下ろした。部屋の家具といえば寝台と鏡台のふたつしかなく、そのまま座れるように敷かれた薄紅の絨毯は白い踵を包み込む厚さでルクレツィアの身体を受け止める。
 眠れない夜にすることはいつも決まっていた。
 夜の闇そのものの壁に手をあて、目を閉じてゆっくりと歩き出す。
 塔に閉じこめられているといっても、後見人である件の枢機卿に会いにいくことは許されている。枢機卿の暮らす大聖堂とこの塔は入り組んだ迷路のような通路でつながっており、世話人である看守に願えば数日のうちに面会を取り計らってもらえていた。忙しい公務のあいまをぬってルクレツィアに勉強や作法を教えてくれたのはその枢機卿である。マデレナと枢機卿がいなければ、きっといまよりももっと塔での生活は辛く不安めいたものだったろうと、その状況を思えばルクレツィアの細い眉が苦悶を帯びた。
 月を凌ぐひかりを与えられ、地上の太陽のごとく炎をまとうルクレツィアに触れることは何人たりと為しえず、己の髪が炎となって燃え立つことに怯えていた幼いころ、慰めるためだけに会いには行けぬ長い夜に、すべきことを教えてくれたのもかのひとだった。
 手のひらに伝わる壁の感触は硬く、目を閉じているがゆえにわずかなへこみも逃すことなく捕らえられた。ひやりとした石の冷たさを内包する壁が、ルクレツィアの放つ火花散る炎を浴びて、かつてその身にもたらされた傷を白く浮かび上がらせる。
 なぞる指先に触れる文字は願い。
 いつかだれかがむかえにくる。
 いつかあのひとがむかえにくる。
 だれにも気づかれぬように小さく掘り込まれたかすかな囁きは、燈台代理としてはるかに闇を照らし、多くのひとの願いを叶えてきた歴代の炎の巫女たちの夜の吐息。
 海へ出た恋人の、旅へ出た夫の帰りを待つ女たちの、拠りどころとして立つ塔の灯火を絶やすことはならない。けれどだれかの道しるべではなく、自分だけのあのひとにこそ、このひかりが届けばいいと。
 焦がれる思いに身を投じてこそ、炎はより高らかに燃え上がる。
 いつかあのひとがむかえにくる。
 ひそやかな祈りは首飾りのように連なり部屋をぐるりと一周する。
「いつかあのひとがむかえにくる」
 呟いたルクレツィアは顔さえ覚えていない両親の出会いを思い浮かべることで、子守唄もあたたかなぬくもりもない、ひとりきりの夜のせつなさをやり過ごしていた。
 少なくとも、母には訪れたのだ、その迎えが。
 壁を取り囲む願いは最後に形を変える。
 いつかあのひとがむかえにくる。
 そしてあなたにもいつか。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。