□■ 燈代のルクレツィア [21] ■□ |
水面を揺らすは、遠くに在りしひとを思うもどかしさ。 クラウスが戻るまでのあいだ、ルクレツィアはなにをおいても彼の無事を願うと誓っていた。誓いつつもそのもどかしさは、ルクレツィアに自分自身の力なさを思い知らせる。 「自分で待つと決めたのにね」 「巫女さま?」 アニシアの呼びかけに顔をあげることなく、赤茶けた水色のお茶をぼんやりと見つめながら、ルクレツィアはその思いつめた翡翠色の瞳を瞬いた。 「いままでみんなが、どれほどの思いを込めて私に祈りと願いを捧げていたのか、いまになってはじめてよくわかるようになるだなんて、巫女としては本当になさけないわね」 こころに浮かぶのは、引き止めてはいけない、引き止めることなど出来ない、旅立つクラウスの後姿である。 「ただ待つことしかできないなんて悔しくてたまらないわ」 香りよいお茶のなかに沈む、蜂蜜のごとき甘い声質で、ほつりと呟かれたルクレツィアの言葉に、アニシアが静かな視線を投げかけた。 「巫女さまは、ただ生きてそこにいてくださるだけで、ひとびとの希望になりましょう」 心配げに言うアニシアの顰められた眉を見て、ルクレツィアはそうじゃないのよ、と軽く首を振って答える。その首筋を撫でる髪は燈代の証である黄金に輝いていた。 「自分が、なんの役にもたたないとか、だれも幸せになんてできないとか、少し前までそう思うたび苦しくてしかたがなかったわ」 心配してくれてありがとう、と微笑んで言うルクレツィアの表情は、どこか大人びたように見える。 「私ね、クラウスが……」 その名前を口にするときだけ、わずかになにかを耐えるように息を吸い、ルクレツィアは手にしていた湯のみを下ろした。 「クラウスが、絶対に危険だってわかっている旅にでるのに、引き止めることもできないし、もちろん一緒に行くことなんてできないし、なにもしてあげられなかったの」 「巫女さま……、それは」 口を開きつつも言いよどむアニシアに、ルクレツィアは表情を隠すように立ち上がると、鏡台へと向かった。鏡に映る自分の姿に微笑みかける。かつてはその少女が嫌いでたまらなかった。希望のひかりと褒めそやされ、真白く輝く黄金の髪をまとい、夜を昼に変える少女だ。 「私は自分の役割が、燈台代理としてこの塔にいることだってわかっているの。それはだれにもかわってもらえないことだし、そうね、いうなれば、とても名誉なことなのかもしれないわ」 鏡台に置かれた櫛を手にすれば、その冷たさが指先に伝わる。そうした感覚は、今、自分が生きているということを表しているのだ。 「だけど、自分が本当に生きていることを実感するのは、自分で決めたことを成し遂げたときじゃないかしら」 塔にいることを決めたのはルクレツィア自身だ。だが、去りゆくクラウスの背を見ながら思ったことは、このひとのためになにか出来たらということだった。だがそのときルクレツィアにできたことといえば、使い古しの帯を渡すことだけで、それは自分の自己満足にすぎない。役に立ちたいと思いつつ、なにも出来ない自分に愕然とした。 不甲斐ない自分に対して、クラウスは労わりと励ましの言葉を残してくれたというのに。 ひとびとは、ルクレツィアを燈台として、そのまぶしさを褒め称える。 しかしルクレツィアには、冷ややかな青い瞳を持つクラウスこそ、自分自身で決めたことをやり遂げようとする意志と力を持っていて、燃える炎のようにまぶしく思えた。そのまぶしさに感嘆の息を吐いてからこそ、ひとびとが自分にひかりを求める思いがわかったようなものだ。揺るぎないものにすがりたいという気持ちも。 「クラウスがあんなにもまぶしいのは、彼が、自分の決めた道を歩いているからだわ。あんなふうに生きられたら、苦しくてもかまわないと思うの」 それを憧れとひとはいうのだ。あるいは希望と。あるいは恋と。 悲壮を漂わせる表情ながら、どこか幸せそうでもあるルクレツィアに、アニシアが意を決したようにかたりと茶器を盆に置いた。 「巫女さまはお母様のことを覚えていらっしゃいますか?」 突然の問いかけに、ルクレツィアは首をかしげる。 「お母様は、先代の巫女の役目を捨てて、塔から逃げ出したのよね」 「逃げ出したわけではございません。巫女さまは本当にそう思っていらっしゃるのですか」 思いがけぬ強い否定にルクレツィアは戸惑いを深める。アニシアの言葉から、自分とそう年齢の変わらないアニシアが、どうしてか母のことを直接に知っているのだとわかった。 母の話をきちんとした形で聞いたことはない。燈台の巫女としての責務を放棄し、海賊にさらわれるままに民を捨てて塔から逃げ出した、と囁かれる噂で知るのみだ。 「だって、先代の巫女が塔からいなくなってしまったから、教会も民もひどく困ったって聞いているわ。目に見える希望を失ったひとびとの落胆は暗く、重く、私が見つかるまでのあいだ、長く続いたって」 「あなたはその責任を負うおつもりですか」 問いただされれば、そういうつもりがないとは言い切れない。 逃げ出した巫女を、ひとびとが許さないだろうとも思っていた。 押し黙るルクレツィアを、アニシアがめったに見せない、柔らかなまなざしで見つめる。 「どうか、あなただけは、あの方を身勝手だなどと責めないでください。あの方もわかっていたのです。それでも、選び取らなければならなかった恋なのです。そうでなければ、あなたは生まれてはきませんでした」 かつての出来事を懐かしむようにアニシアは微笑み、その微笑みから、アニシアが先代の巫女であり母であったひとを、とても好きだったことがルクレツィアにも伝わる。 「わたくしは以前に申し上げました。巫女さまに対する救いがどういったかたちであらわれることになるのか、それを判ずることはできないと。それは、巫女さま自身がお決めになることだからですよ」 言い諭す声も優しく、ルクレツィアはアニシアが、母のことだけでなく自分のことも大事に思ってくれていることに、いまさらながらに気づいた。ルクレツィアに対する当初の冷たいような態度は、ルクレツィアと接することで、母を思い出すからかもしれない。 「あなたに、この塔で、なに不自由なく危険なめにもあわず、ただ生きていて欲しいと願うことは、あなたのお父様やお母様……わたくしたちの願いでしかないのです。本来あなたは、どのように生きることも自由に選べるのです」 「アニシア……」 「だれかの願いを叶えるために生きることを使命とすれば、息をすることさえ苦しくなるときがあったでしょう。あなたの身を危険にさらすことは望ましいことではありませんが、どうぞあなたがなさりたいように」 いざというときにはわたくしがお守りいたします、と言葉にはしない思いを伝えてくるアニシアにルクレツィアは瞠目する。素直な驚きに言葉をなくすルクレツィアに、アニシアが冗談めかした微笑を見せた。 「どんな男を連れてきても、男親というのは娘を奪っていく相手が嫌いなものです。わたくしはルクレツィアの親ではありませんが、少なくとも、姉ではあると思っていますから、あなたがこの塔で無事に生きていて欲しいと願ってやまないのですよ。でも、子供というのは、親の期待や願いなどとは無関係に、身勝手に生きていくものと決まっているのです」 「……アニシアが笑うの……はじめてみたような気がするわ」 呆然と呟くルクレツィアに、アニシアが今度は声をたてて笑った。 「あなたに姉のように慕って欲しくて、なるべく大人びたふるまいを心がけていたのですけど」 「いまのアニシアのほうが好きだと思うわ、私」 心のそこからそう思い、ルクレツィアはアニシアの顔を見つめてきっぱりと言った。 それに対し、アニシアは言葉にしてはからかいを口にしつつ嬉しそうに瞳をゆるませる。 「本当に好きなひとは違うひとではありませんか」 「……そんなひといないわ……」 「そうでしょうか」 「意地悪なのはかわらないのね」 ひどく恥ずかしいような気がして、ルクレツィアは視線をそらして俯いた。 手のひらにある櫛を見つめ、その櫛に命を吹きこむように息を吐く。 櫛に触れれば、そこから漂う不吉な予感に滅入りそうになる。 ざわざわと胸を騒がせる不安が、ひどく強くなっていた。 食らいつくつもりならばそうすればいいと、その禍々しい影に向けて願ったのはつい先日のことだ。 それでなにかが変わるなら、それに掛けてみようと思ったのだ。 燈台の巫女であるかぎり、塔を、民を捨てることはできない。 だが、同時に、願うことがあった。 なにかが近づいてくるのがわかる。鼓動を刻むように、櫛がわずかにふるえた。 「なにか来る……」 はたと、頭上に影がよぎる。 薔薇硝子がゆがみ、激しい音をたてて粉々に砕かれた。 「巫女さま……ルクレツィア!」 鋭いアニシアの声が届いたが、それさえも硝子を破って塔に侵入した獣の唸り声にかき消される。 胸をざわめかせる不安が形となったそれを、ルクレツィアは真正面からしっかりと見つめた。 黒い毛並みは闇のなかにあって、なお暗く、その影と同化して恐怖をかきたてる。 それでも抵抗をしないのは、それを呼んだのが自分自身だと知っているからだ。 黒々とした炎を燃え上がらせる獣がその口を開き、赤黒い内面をのぞかせる。 唸る獣の声と風の音に途切れがちになりながら、ルクレツィアは獣に取引を囁いた。 「……私の命であがなえるものがあるなら、そうするといいわ。でも、それ以上は渡せない」 いつかだれかが迎えに来ると、塔に刻まれた文字が思い出される。 さらいに来るならば来るがいいと、櫛に願い、月に呼んだのは、クラウスを旅に駆り立てる理由となるもの、クラウスを危険にさらすものに対してだった。 ひとびとの願いを叶える力が本当に自分にあるのだとしたら、祈ることがむだではないというのならば、巫女である自分の願いが叶わぬことはないだろう。 一緒に旅に出るわけにはいかなかった。 だから、せめて、クラウスの危険をかわりに引き寄せることを願ったのだ。 「自分で決めたとおりに生きて……死ぬわ」 現れたこの獣こそが、クラウスが追うもの、そしてクラウスを追いかけるものに他ならない。 彼の帰りをただ待つ至福よりも、彼の苦難をともに受け入れることを選び、ルクレツィアは静かに微笑んだ。 「塔からはでない。クラウスは守る」 自分の亡骸を撫でる手を脳裏に描けば、それが自分の生きた証のように思える。 「あなたの無事を祈ります」 揮われる牙の痛みに構え、ルクレツィアは遠くにありしひとを思った。 自分にも出来ることがあるのだという喜びとともに。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。 |