□■ 燈代のルクレツィア [23] ■□


 左頬に触れる冷たさと、右頬に触れるあたたかさの違和感に、ルクレツィアはふと瞬いた。その途端、目を焼くような白に視界が覆われる。
「なに……」
 声を出してみたがその響きはかすれていた。そうした喉の渇きと痛みが、自分がまだ生きているのだということを実感させる。
 身を起こそうとすれば、すぐそばで荒い息遣いが聞こえた。視線だけを動かすと、自分の身体を覆うように、ごわごわとした毛皮を持つ獣の顔がすぐそこに迫っていた。
「……刻陽」
 呼びかけると、その剣呑な暗い瞳が嬉しげに微笑む。
 戸惑いながらもゆっくりと起き上がると、その無茶をおしとどめるように刻陽が軽い唸り声をあげた。けれどそれは、身勝手さを咎めるものではなく、あくまでも心配を示したものらしい。
 あたりを見渡せば、目を突き刺すような一面の銀世界である。その雪原はどこまでも広がり、立ち並ぶ白樺はそれ自らが凍り付いているように微動だにせず伸びていた。
 身体が震えるのは刻陽に対する恐怖からではなく、骨に達するような寒さからだ。吐く息さえ色づいて形なす気温は、教会の薄物の寝巻きに耐えられるものではない。かたかたと歯を打ち鳴らせば刻陽が身体をすり寄せてくる。
 ここはどこなのか、どうして自分を殺さないのか、疑問に思うことはたくさんあれ、わかるのは黒き獣が、自分を守ろうとしているということだ。
「刻陽……私、どうしたらいいの」
 願ったのは、クラウスのかわりに自分に出来ることがあればそれを為すということ。
 塔で対峙したときには、呼び寄せた獣に自分は命を奪われるのだと覚悟した。
 しかし刻陽は獣らしいしぐさで牙と舌を見せるだけで、それをルクレツィアに振り下ろすつもりはないらしい。ふるえるルクレツィアを暖めるように、尻尾を巻きつけてルクレツィアをその巨体に囲いこむ。伝わるのは、生き物特有の鼓動と体温だった。
 ルクレツィアが身体をあずけるように力を抜いて頬を毛皮に押し付けると、刻陽が一瞬、四肢に緊張を走らせ、次いで嬉しそうに太い首をふる。
「こんなところに……ひとりでいたら寒いわよね」
 ルクレツィアが語りかけると、その言葉のひとことも聞き漏らさないというように、刻陽の耳が鋭く立ち上がる。主人になつく獣というより、親に甘える子供のような素直さで、刻陽はルクレツィアに身体をすり寄せた。
「あなたはひとりでさみしいの……?」
 その淋しさはルクレツィアにも覚えがあった。世界に自分はたったひとりなのだと思うことはとても淋しく苦しい。
 だがいまルクレツィアはそれ以上の淋しさを知っている。
「そばにいて欲しいと願うひとがそばにいてくれないなら、どこにいても、だれといてもさみしさはかわらないわ。刻陽には、そばにいて欲しいひとはいないの?」
 刻陽の瞳が憎みに燃え上がり、すぐにそれは寂しさにかわった。言葉がなくとも、その様子でルクレツィアには刻陽がこころに傷を負って生きているのがわかる。
「そばにいて欲しいひとが、いなくなってしまったのね……」
 もしもクラウスが死んでしまったら、もしもハビエルがそばにいてくれなかったら、もしもアニシアと話すことがなかったら、という想像だけで、ルクレツィアは今、身体に感じている寒さ以上の冷たさでこころが冷えていくのを感じる。
 息を吸えば、氷の粒が胸に入り込むような気がした。胸に抱いた決意がなければ、たちどころに肺が凍り付いていただろう。
 指先に力を籠めて刻陽にすがりつく。
「私があなたのそばにいるわ……だから」
 クラウスを追うのはやめて。
 そうルクレツィアが告げようとしたとき、己を呼ぶクラウスの声が耳に届いた。
 はつと気づいて空を見上げれば、黄金の獣にまたがった黒装束の男がそこにはいた。
「クラウス」
「ルクレツィア」
 つい今しがた、刻陽のそばにいるといいながらも、クラウスの姿を目にすれば、自然とルクレツィアの指先はまだ遠い彼方へと伸ばされた。
 そのルクレツィアの身体を、刻陽がなぎ払うように強引に後ろへと押しやる。
 力もなく頼るものもないルクレツィアの身体はよろめき、足元のおぼつかなさが雪原を滑らせて身体を倒れこませた。身を起こしかけたルクレツィアの眼前に、頭上の松の枝から零れ落ちた雪と氷柱が突き刺さる。あとずされば、追うように松の枝自体が折れた。
「クラウス……刻陽」
 叫んでも声は氷柱に阻まれて凍える。
 ほんの少し瞬いた間に、ルクレツィアを取り囲む凍りついた松の枝は増えていた。
 爪先に振り落とされた氷柱に追われ、ルクレツィアはさらに後ろへと下がり、ついには背を翻した。気がつけば両端は緑の葉の透ける氷でできた壁になっており、ルクレツィアを奥へ奥へと導く。
「行かなければならないのに」
 クラウスのもとへ、刻陽のそばへ。
 握り締めた手のひらの痛みに、ルクレツィアは自分がまだ真白き櫛を手にしていることに気づいた。しかし真の痛みは胸のうちにある。
「そばにいたいひとのそばにいけないなんて、そんなことが許されるわけないわ」
 ルクレツィアの言葉に呼応するように櫛がひかりを帯びる。
「なにが邪魔をしているのか知らないけれど、これ以上、私を困らせるつもりなら、馬にけられてしまえばいいのよ。それがむりなら私がやるわ」
 氷の道は次第に階段を作り、ルクレツィアはその螺旋をなぞりさらに足をさきにすすめた。氷は素足を刺すように感じられたが、ルクレツィアが白い吐息を吐くたび、背中で揺れる黄金の髪が、火花を撒き散らしてあたりを照らした。
 ルクレツィアの意志を無視して行く方向を定める氷の道に対する恐怖は、憤りへと変化している。そしてその苛立ちは、これまでの自分の人生へも向けられていた。
「いつかだれかが迎えにくるなんて……そんな都合のいいことなんておこらないわ。だれもさらいにきてくれないなら、自分から出迎えにいくしかないじゃないの!」
 昇りきった階段の終わりに、天まで突き抜けるかのような銀の扉が現れる。ルクレツィアは怒りのまま、指先に炎をまとわせて扉を押し開けた。
「あなたが私の邪魔をしているのね」
 開いた先の部屋で鎮座するひとに向かい、ルクレツィアは息を切らしつつ叫んだ。
 勢いのままに指を突きつけねば、その威圧感に倒れ伏してしまいそうだったのだ。
 己の暮らす燈台によく似た螺旋階段の奥の部屋にいたのは、青白い肌と銀の髪を凍らせた女性である。女神とも魔女とも呼ばれるほどに力に溢れた存在であろうことは、巫女であるルクレツィアにも当然察することが出来る。
 張り巡らされた氷の蜘蛛の巣に座すその女性が虚ろな眼差しで瞬くたびに、銀の蝶があたりに舞い、冷ややかに唇を歪めるたびに氷の糸が妙なる調べをたてた。
 ルクレツィアは髪の先が凍りつきそうになったが、身をふるわせてそれに耐える。気おされぬようにと翡翠色の瞳をひからせたとき、世界の氷の全てを従えし女王がきらやかな笑みをもらした。
「邪魔とはまさに小癪なる言いぐさよな、小娘」
「私が小娘ならば、あなたはきっとおばあさんのおばあさんのそのまたおばあさんぐらいの年齢なのでしょうね」
 からかいに対し強気に返す矜持はルクレツィアのそらした顎先に現れる。
 生意気だと言われても、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。そもそも呼び寄せたのは女王のほうだという気持ちがルクレツィアにはある。たとえ、炎の巫女に属するルクレツィアにとって相性の悪い相手であっても、普通の人間よりは耐性もあるはずだ。
「ひいひいひいひいおばあさまは、どうして私をこんなところにお連れになったのかしら。私、おばあさまと違ってとても忙しいのですけど」
「おまえの母親は大人しいわりに思い込みの強い女だったが、おまえは思い込みが強いうえに気が強くていけないね」
「どうしてあなたが私のお母様のことまで知っているのよ」
 驚いてルクレツィアが言い返せば、面白げに氷の女王の細い腕が薄い唇を覆った。
「おや、おまえが言っているのじゃないか。わらわはそなたらの祖母ゆえにな。あるいはそなたらが、わらわが娘の娘の娘のまた娘の娘なのではないか。何代あとなのかはわらわも知らぬが。なにしろ生きているかどうかもしばらくは定かではなかったからな」
 最後の言葉のみ、氷の女王の表情から微笑みが消えていた。
 再び冷ややかさをました女王の変化には気づいていたが、ルクレツィアも黙ってうなずくわけにはいかない。
「私は燈台代理、燈台の巫女よ。炎の女王の娘と呼ばれてきたわ。どうして氷の女王であるあなたの娘にならなければいけないの」
「おまえはその炎が、意志なく燃ゆるものと思っているのか」
 問いかけにルクレツィアの黄金の髪がぱきりとはじける。
 炎に包まれたルクレツィアは、氷の女王の言葉の意味にはつとして両手を握り締めた。炎はただ燃えるだけのものではない。ルクレツィアの意志をくみ、遥か彼方までも照らすものだ。それはだれかの道しるべとなるように。だれかの行く手を守るように。
「意志がなくなれば炎は消える。わらわがように」
 視線を合わせれば、氷の女王の瞳はいまにも涙を零しそうなほどに悲しげに歪み、けれど涙は流れることなく凍りついた。
「こころが凍りついてしまったのだよ。わらわが娘が奪われ、恋人が消え、しもべさえ戻らぬ日々が永劫に続けばな。涙も慈悲も凍りついた」
「でも私がいるわ」
 沈み込んだ氷の女王を慰めるべく、ルクレツィアは躊躇いなく女王のそばにかけよると、折れそうに細い白樺のごとき手をとった。
「思い込みが強くて気の強い娘で申し訳ないけれど」
 素直なルクレツィアの慰めに、女王が微笑みを大気に漂わせる。
 氷の女王の手が、ルクレツィアの燃える髪に触れられた。青白い手にわずかに血色がもどり、照らされるひかりに映えるように頬にも赤みがさす。
「契約をかわしたのはそなたではなかったが……その櫛を貸してはもらえまいか」
 女王の申し出に、ルクレツィアは手のひらのなかで騒がしく震える櫛を差し出した。
「この櫛は、刻陽のものだけど……」
 残してきた黒き獣を思い描けば、同時にクラウスのことも思い出されて胸が狂おしくなる。それを誤魔化すようにルクレツィアは深く息をはいた。
 そのルクレツィアの緊張した頬を優しく撫でると、女王は櫛に視線を注ぐ。
「刻陽とはよき名前よな。わらわが与えしコハクなる名前に劣らぬ。おまえの守り手を失わせることになるやも知れぬが、湖白に問わねばならぬことがある」
 許せ、と聞こえたような気がした瞬間、真白き櫛はそれまでの禍々しさを振り払うように、轟然と勢いよく燃え上がった。
 ルクレツィアの持つ炎さえ吸い尽くすような激しさで、氷の女王の手のひらの上で火花が散り、炎が舞い上がり、火柱は女王の身体を支えていた蜘蛛の巣を溶かす。
 氷の白を塗り替えるその黄金の炎は、女王の爪に燈り、指先の骨をほぐし、二の腕に巻きついて喉を焼いた。
 反り返る女王の身体を抱え、ルクレツィアも炎に包まれる。
 ひかりの奔流が部屋のなかを暴れ周り、壁を引き裂いて床をひび割れさせた。
 ここまで圧倒的なひかりはルクレツィアも知らない。
 瞬く睫毛の先から炎が身体を覆いつくし、目の色を焼いて喉の奥をしびれさせた。
 痛い、と声に出した言葉さえひかりに燃やされて一瞬の間に影として落ちる。
 炎を取り戻し、ひかりを手にした女王により、歪められたなにかがルクレツィアの身体を引き裂こうとしていた。
 ひかりに焼き尽くされて消えてしまう恐怖に、ルクレツィアは声のかぎりに叫ぶ。
「クラウス!」
 ひかりの刃がルクレツィアの意識を焦がすように、ルクレツィアの荒い呼気を示す胸を貫いた。
 遠のく意識のなかで、ルクレツィアは自分が涙を零しているのに気づき安堵する。それは塔に囚われ、使命に縛られて生きていた自分のこころが、まだ凍りついてはいないことの証だった。願わくば氷の女王のこころも、この炎で溶けてくれればいいと思う。
 意識がなくなると同時に、足元の感覚も失われる。
 氷が溶け、崩れた塔から、ルクレツィアの身体は舞い散る花のごとく零れ落ちた。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。