□■ 燈代のルクレツィア [4] ■□ |
灯の翳る感覚にルクレツィアは伏していた枕からふと顔を上げる。 さらりと肩をすべる髪がいまだ金色に輝いていることを目に捉え、夜明けにはまだ間があることを確かめた。 夜明けはルクレツィアにとってただ喜びだけで迎えられるものではない。闇はルクレツィアを優しく包みひかりを与えるが、陽光はその己の生きる意味ともいえるひかりを容易にさらっていくのだ。太陽がほんの少しでも海の果てから姿を現せば、ルクレツィアの放つひかりはあたかも幻であったかのようにはかなくも失われる。 「ならばどうして」 黎明以外に自分からひかりを奪う存在がわからず、ルクレツィアは落ち着きなく黄金の髪を指先でもてあそび視線を巡らせた。 薄紅の絨毯は柔らかな撫子畑を思わせ、藍色の壁は夜空そのもの。鏡台の葡萄蔓の装飾のなかの雉鳩がいまにも飛び立ちそうに見えるのはその精緻な細工ゆえだ。時計さえないこの部屋のなかで動くものなどルクレツィアのほかには洋杯のなかの青い魚ぐらいである。 だがすぐにルクレツィアは信じられぬ思いで目を見開いた。 鏡台に置かれた白蝶貝の化粧箱が常ならぬ輝きで煌々と闇のなかに息づいている。 駆け寄り恐る恐る見れば箱はいつもと変わらず、ただそのなかにある半月の櫛がかつてないひかりを放っていた。 「なにがあったというの」 緊張に上ずる声をもらし、天鵞絨の台座から飾り気のない櫛をゆっくりと手に取る。思いがけぬ、禍々しいまでの輝きにルクレツィアの櫛を持つ白い手が震えた。 「あ……」 痛いと小さく悲鳴をあげたのは、手のひらに収まる櫛の、鋭い歯が無防備な中指を突き刺したからだ。ぽたりと溢れた血が純白の櫛を緋色に染める。これまでそんなことは一度たりとなかった。 枯れた老木のごとく生気に失せた櫛が、ふいに牙もつ獣の本性を見せたかのようだった。 慌てて血の痕を拭ったが、吸い込まれたそれは深く、染みとなって黒点を刻む。 不吉な、嫌な予感をもたらす色だった。 櫛にかけられたまじないは、ただ炎を呼び込むものだけではないのかもしれない。 取り返しのつかない失敗を犯したときの焦りがじわりと胸を浸す。 与えられ命じられるままに髪を梳いてきて、この櫛をこんなにも恐ろしいと思ったことはなかった。 掴みどころのない不安に襲われ、なかば放り投げるようにルクレツィアは櫛を取り落とした。ためらいつつも後ずさりすれば背中がひやりとした壁に触れる。逃れられないのだという思いは、初めてこの部屋に閉じ込められ、扉の向こうで鳴る閂の音を聞いたとき以来だった。 助けを求められる相手などそばにはおらず、新しい世話係のアニシナは内側から扉を叩いた程度で長い螺旋階段を登ってきてくれるようには思えなかった。 扉以外にこの部屋のなかで外に通じているのは、丸天井にはめ込まれた薔薇の意匠の窓だけだ。だがその存在になんの意味があるだろう。色硝子のある部分はルクレツィアの背丈より高く、たとえ手が届いたとしてもそれを打ち破る道具も力もない。 「そうね」 すがるように見上げたルクレツィアの怯えと諦めの混じった呟きが唇からもれる。 「だれも助けてはくれないのだわ」 逃げ出そうとしても逃げられない。助けを待ってもだれも訪れない。他人の願いの代償に、己の願いがはかなく消えてゆくのをただ数えて過ごすことしかできない。それが燈台の巫女であるということなのだ。 絨毯に落とした櫛を探すべく、ルクレツィアは潤んだ緑の瞳を瞬かせた。 だがそのとき、がつと激しい音をたてて頭上の天窓にひびが入る。 「な、に……」 息を呑むルクレツィアが驚きに瞠目するなか、雷を浴びて塔そのものが振動するような、ばりばりとした轟音がして天井の色硝子が唐突に砕け散る。 そして硝子とともになにかが部屋に落下した。 降る色硝子の煌きをまとい、天上の御使いのごとく忽然とあらわれたそのひとはしかし、願いと引き換えに魂を奪う、冥界の死神を思わせる漆黒の衣装に身を包んでいた。 「あなただれなの」 こくりと震える喉を鳴らし、不意の来訪者にルクレツィアは呆然と問いかける。 「私を……」 迎えにきたのと続けようとして、すぐにそのあまりにも荒唐な考えに力ない微笑みが唇に浮かんだ。だれも迎えになどこないのだと、つい先ほど痛感したばかりだというのに、奥底に沈めたはずの願いはささいなきっかけであふれ出る。それは本来忌むべき死神の迎えさえ愚かしくも歓迎してしまうほどだ。 だが騎馬を日常とするブーツを履き、異国の匂いのする布を頭に巻いて外套とともに垂らしたそのひとは死神であるはずもなく。衣装と同じ漆黒の髪が巻いた布の合間から見えるが、布はおそらく風習と習慣のためのもので、髪の色を隠すためのものではないようだ。 この地方ではほとんど見ることのない、目をそらされることさえある漆黒の色彩を身に持つ人間は、ルクレツィアも自分以外では初めてだった。 そのもの珍しさは恐怖を超え、今はまだ黄金に輝く髪のルクレツィアの視線を奪う。 だが天窓を破り部屋に落ちてきた相手も、片膝をついて着地した姿勢のまま、信じられぬものを見るような目でルクレツィアを凝視していた。あるいは痛みのために動けないでいるのかもしれなかった。 「どこか怪我をしているの」 うかがうように首を傾げれば、はつと気づいたようにその相手は天井を見上げる。 「ヒスイ」 低い艶のある声は、彼が若くしなやかな肉体をもつ青年であることの証だ。 ほどなくして青年の呼びかけに答える形でぬうと窓から伸びてきたのは、灰色牛の角と野生馬の荒々しいたてがみをもつ、大型の狼に似た獣の顔だった。その獣がただの狼でないことは、その琥珀色の体毛と柘榴石をはめ込んだような双眸からすぐにわかる。 裂けた口には鋭く尖った牙がいくつも見えた。 身をすくめるルクレツィアの前でその牙がためらいなく青年に食らいつく。 反射的に目を閉じたルクレツィアが耳にしたのはしかし、青年の叫び声ではなかった。 強くつぶった瞼を激しく鳴る動悸とともにひらく。 「どうして」 困惑はルクレツィアの膝から力を奪う。 絨毯に座り込んだルクレツィアの前に青年の姿はなく、ただ割れた硝子だけが残されていた。 黎明が満ちる。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。 |