□■ 燈代のルクレツィア [5] ■□


 ゆらゆらゆるりと。
灯火が踊り揺らぐように、ルクレツィアの気持ちもまた安定を欠いていた。起こった出来事を反芻すればするほど、まるで幻を見たような不確かさに襲われる。
 だが間違いなく起こったことである証に、天窓の色硝子は陽光のなかでも粉々に打ち砕かれたままだった。そして潮風の匂いと白々と明けゆく朝日のなか、アニシアにわけを問われたルクレツィアの、雷鳴のせいだという答えは信用されていない。そうでなくて、こんなにも早くかのひととの面会が許されるはずもないのだ。
 深紅のほっそりとしたドレスが床を掃くたびさわさわと音をたてる。それはひとびとの不審の囁きにも、胸のうちの不安をかきたてるざわめきにも似ていた。
 華やかな装いがルクレツィアの気分を晴れやかにすることもなく、翡翠のまなざしは力なく伏せられて硬い石造りの廊下のひびわれを眺める。足をとられぬように気をつけなければと、普段あまり歩くことをしないルクレツィアは心持ち緊張していた。
 素足と同じだけ白い繻子で作られた靴下は、ルクレツィアが部屋の外に出るときにだけ特別に与えられるものだった。ほどよいやわらかさと硬さで縫われたそれは、汚れの程度にかかわらず一度穿かれたのちにすぐさま処分される。靴下のみならず、ルクレツィアは自分の靴を一足も持っていなかった。それは必要のないものとして、決して用意されることはないのだ。
 どれほど豪奢な衣装に身を包み、刺繍の細やかな帯で飾り立てられても、ルクレツィアの生活は囚人と変わらない。そしてそれを悲しいと思うことすら億劫になってきていた。だれも癒してはくれぬ悲哀など、いつまで抱えていても苦しくなるだけだ。
 ふとルクレツィアは薄暗い廊下の柱の隙間から中庭に目を向ける。ひかり射すその場所には、飛沫あげる噴水と幾多の花々が咲き誇っていた。瑞々しく朝露を含んだ薄青い千成酸漿が見える。それはあの、漆黒の出で立ちの青年の瞳を思わせる青だった。
 彼が本当に自分を迎えにきたのならよかったのに、と思い、益体のない考えに苦笑する。言葉をかわすこともなく、名前さえ知らないひとが、突然自分をさらってくれるはずなどない。いつかだれかが迎えにくるなどという願いは、きっといつの世も叶わなかったのだ。だからこそ、あの塔の壁をぐるりと一周するほどの祈りが刻まれている。
「巫女さま」
 後ろに控えるアニシアの咎めるような声に、ルクレツィアはため息をついて振り返る。
「どうしていつもこんなに大勢に囲まれていなければならないの。どうしてほんの少し立ち止まることも許されないの」
「御身をお守りするためにはこうするのがよろしいのです。巫女さまはわたくしたちにとってかけがえのない、ふたりといないたいせつな御方なのですよ」
 房のついた布張りの傘を掲げられて顔を隠され、アニシアやそのほかの修道女たちに囲まれて歩かされる廊下の少しさきには、こちらを窺う人垣ができていた。自分の存在を隠したいのか公にしたいのか、なんともいえず奇妙なものだ。大仰に隠したてることで、さらにひとの注目を引いているように思える。長らく不在であったという燈台代理を取り戻した教会の権勢を、ここぞとばかりに示しているような、わざとらしさが透けて見えた。
 もっともその思惑がどうであれ、行列の仰々しさはルクレツィアにとって息苦しいものでしかない。ほんのひととき感傷に浸る自由さえ奪うアニシアに対する言葉は、どう取り繕っても素直で従順とは言いがたく、それでも言葉は止まらずに零れ落ちた。
「いったいなにから私を守ってくれているというの。私を閉じ込めて好きなように扱っているのはあなたたちなのに。あなたたちこそ罰が下されてしかるべきなのではなくて」
 子供じみたわがままと知りつつ不満を低く呟けば、アニシアの感情の読み取りづらい瞳がわずかに細められた。それがルクレツィアの反抗的な態度への不快をあらわしたものなのか、ルクレツィアの境遇に対する憐憫を押し殺したものなのかは図りかねる。忍耐強さを子供のころより強いられたルクレツィアが、いまだ幼いといっていいほどに若いことは、遠くにひしめき並ぶ人垣からもわかるだろう。
「巫女さまは天が使わした戒めであり救いなのです。わたくしたちが巫女さまにすがらねば生きてはいけぬかよわき存在であることを、どうかお忘れにならないでくださいませ」
 結局返された答えはいつもどおりの決まりきった言葉で、それはかつての世話係であるマデレナからも、なんどとなく聞かされたものだった。代わり映えのしない情の薄い言葉に、諦めと怒りのないまぜになった感情をもてあましたルクレツィアは、ひたりとアニシアに強い視線を合わせた。そうしなければこの場で泣いてしまいそうだった。
「それならば私はだれにすがればいいの。だれが私を救ってくれるの」
 心細さを隠すべく覚えた強がりはよりいっそうの哀れみをまとい、張り詰めた神経の糸の千切れるような不協和音となって唇からもれる。
 精一杯の強がりで顎をあげるルクレツィアからアニシアは視線をそらし、先を急ぐように促しながらひそやかに硬い声で告げた。
「巫女さまの救い手がどのようなかたちであらわれるのか、それを判ずる責はわたくしにはございません。それがあるかなしかも、わたくしにはわかりかねます」
 それはアニシアにとって事実であるだろう。だが突き放したように言われれば、どうすることもできない悔しさと辛さにルクレツィアは言葉を失う。
 胸のうちに抱える感情の数々を吐露するたびに返されるのは、いつもただ冷徹な言葉だけだった。そのやりとりはルクレツィアのこころを蝕み、徐々にではあるが細やかな感情の波を失わせていた。向けた感情と同じだけの強さで相手の感情が返されなければ、求めることはおろか与えることさえためらいがちになっていくものだ。
 自分のなかの感情に目をつぶれば傷つかずにいられるということに気づきつつ、そうはなりきれないルクレツィアにとって、自分のその中途半端な甘えが自己嫌悪のもとだった。
 諦めようと思いつつ、救いが訪れることをどこかで期待しつづけいる。
「わかっているわ、だれも私を救ってはくれないことなんて」
 ゆっくりと足を進め、ルクレツィアは胸の痛みには気づかぬふりで深紅のドレスの裾を翻す。ひびわれた廊下もいまは気にならなかった。それが自分のこころをあらわしているような気さえしていた。
「もしも私がいなくなったら、たくさんのひとが困るものね」
 それを犠牲と呼んではならない。
 それはあくまでもひとびとに捧げられた清らかな献身。
「わかっているわ、それはこのさきもずっと変わらないのよ、私の命があるかぎり」
 穢れなき乙女のこころを汚し。
 賭して灯すは命の灯火。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。