□■ 燈代のルクレツィア [6] ■□


 深緑の天鵞絨は葉叢の影の折り重なる沼のごとく。
 受け入れ捕らえた身体を縛るように深く沈ませ、やわらかく滑らかな肌触りは眠りをさえ誘った。
 粘りつく重い静寂。
 疲労したクラウスの身体はその心地よさを求めていた。
 しかし年長の食えない友人の言葉を無視した場合、後々窮地に追いやられるのがほかならず自分であることを、これまでの経験から望まずとも学んでいたクラウスは、質感のよい天鵞絨の長椅子に預けていた背をわずかに浮かし、不審げに眉をはね上げた。
 そうすると、もともと穏やかとはいいがたいクラウスの冷然とした顔立ちが険しさを増し、見るものにはどこか落ち着かない居心地の悪さを与える。もちろんその鋭利な風貌ともっとも付き合いの長いクラウス自身も、その効果は熟知していた。
 少しはこの男も困ればいいのだと、意地悪い気持ちでクラウスはしばらく考え込むように沈黙する。いつもいつもこちらが振り回されるばかりではわりがあわない。
 皮肉げな笑みを唇に掃くと、クラウスはゆっくりと低い声を押し出した。
「悪いが俺はあんたの言いたいことがよく聞こえなかったみたいだ。はっきりと聞こえるようにもう一度言ってもらえるか」
 嫌味たらしい物言いは提案への遠まわしな拒絶である。
 しかし目前の男はクラウスの不機嫌など気にしたふうもなく、それどころかさらに聖職者にふさわしい深い笑みを整った顔に浮かべ、朗らかに言葉を重ねた。
「なんど言ってもいいよ。きみにひとを浚ってほしいんだ。きみはぼくに借りがあるだろう」
「あんたは自分がなにを言っているのかわかっているのか。誘拐を唆したうえに脅迫なんて穏やかじゃないぞ」
 いっそ衝動のままひっくり返してやろうかと思ったことは自制し、こつこつと苛立ちを示してクラウスが叩く漆塗りのテーブルには、教会自作の白葡萄酒が石竹の茎のように長い脚をもつ水晶の杯に満たされていた。
 クラウスと違い、武器を持つことをしない指は細い。優美なしぐさでハビエルはそれを持ち上げ口をつける。
「ああ今年は雨が少なかったけどこれならきみも気にいると思うよ」
 ありがとう、とそばに控えていた侍女にハビエルは告げ、侍女はクラウスの前に置かれた杯にも酒を注いだ。よく洗練された動きはひとしずくも零すことなく希少な白葡萄酒を扱ったが、ちらりと窺うような視線にはクラウスをいぶかしむ色があった。教会でも高位のハビエルが迎える客としては、クラウスの旅なれた簡素で粗野な出で立ちが奇異に映るのだろう。あるいはこの地方では禍々しいものとして捉えられる、その漆黒の髪をこそ恐れたのかもしれないが。
 クラウスは薄青い瞳を眇め、侍女の長い金茶の髪を無造作に引く。
「こんなところで酒を注いだりしなくてもあんたくらい美人ならどこでも貰い手があるだろうに。どうしてわざわざこんな息苦しいところにいるんだ」
 言葉では容貌を褒めつつ、クラウスの瞳にあるのはあからさまな軽蔑だ。
 異国人である自分の姿がこの地方では忌まれる色彩をもつと知ったとき、どこか拍子抜けし失望したことを覚えている。故国と違い、技術も教養も最先端の国だといわれていたのだ。その国が、たかだか身体に現れる色ごときを恐れているなど、最初はなにかの冗談かと思ったほどだ。それでも、ひとびとの自分を見つめる怯えた視線には息苦しい不快を感じる。
「クラウス、あまりうちの子をからかわないでくれるかい」
 たしなめ執り成すハビエルは、クラウスを面白がりこそすれ厭うことはない。ハビエルのその態度に、自分で意識する以上に救われているのだろうと思う。あるいは意識する以上に自分が傷ついているのか。そうでなくては、旅に出るつどここに戻ってきてしまう己の行動の説明がつかない。流浪の民にも故郷はあるのだ。ただそれはいつもどこかの土地をさすものではなく、だれかのとなりをさすものであったが。
 クラウスは苦々しいような嬉しいような思いで小さく笑い、困惑した表情の侍女の髪の毛を捕らえたまま、ふたたび身体を長椅子の背もたれに深々と預けた。
「俺があんたにどんな借りがあるっていうんだよ」
 芳醇な香りのする杯に手をのばすことなく、不遜にも悠々と足を組みかえるクラウスは、がちゃりと音をたてる腰にさげた長剣を押さえ、ハビエルのさきの言葉を繰り返して鼻をならす。こころのうちでどれほど頼りにしていようと、高い矜持は甘えることも負うことも許すものではない。目に見えぬ絆など、ひそやかに己ひとりが抱えればよい。
「つい最近わざわざ俺が、子供を亡くした教会の侍女を生まれ故郷まで届けてやったよな。そいつがだれだかを死んだ娘のかわりに連れ出していくかもしれなかったからとかで。このあいだはあんたが仲の悪い同僚から毒を盛られそうになって、俺が気づいて止めてやったよな。それなのに好物の兎パイを食べ損ねたと責められたけど。借りがあるとしたらあんたのほうだと思うがどうだろう。ついでに言えばこの侍女が懐に短剣を隠し持っているのはなぜなんだろうな」
 言いざまクラウスは組んでいた足を解き、そのまま右足を踏み込むと左足で侍女を蹴り上げた。その左足が着地した瞬間、右肘で相手の首に狙いをつけて手刀を振り、強靭な身を躍らせると侍女の身体を抑え込む。暗殺を目的として送り込まれてきた女が抵抗を示すより、すべてを見抜いていたクラウスのほうが動きが早い。
「よくわかったねえ」
 息ひとつ乱さないクラウス同様、ハビエルもまた驚いた様子も慌てた様子もなく杯を傾けた。しかし侍女が持っていた葡萄酒の瓶が割れて絨毯に染みを作っているのを見ると、残念そうにため息を吐く。
「もう少し考えてほしいものだね。以前には別なひとがぼくの寝台まで来たことがあるけど、血で汚れた敷布を取り替えるのだって教会の経費がかかるのに。ああ今回も絨毯を汚したと怒られるよね」
 どこかのんびりとしたハビエルの言葉は命を狙われたものにしては奇妙なものだ。だがいまさらこれくらいのことで騒ぎたてるような繊細な神経をハビエルは持ち合わせていない。そうでなくては、王権と並ぶ影響力をもつこの教会のなかで、枢機卿などという法王に次ぐ地位にのぼることはできないのだ。
 歴代最年少で枢機卿になったハビエルを、その容貌の優しげでたおやかなさまから、民衆向けの象徴にすぎないとあざ笑うものもいる。異例の抜擢の理由である行方知れずであった教会の宝物を探し出したことさえ、ただの幸運として評価しないものもいる。そして嫌がらせで無駄に足をひっぱろうとしてはたくみにすり抜けられ、疎んじて先走れば返り討ちにあうのだ。
 クラウスは自分の頭に巻いていた布で侍女の姿をした刺客を後ろ手に縛り上げる。体重をかけてうつぶせに押さえ込んだ身体はすでに最初の一撃で気を失っており、ぐったりと手足を投げ出した肢体はか弱げでもあった。だがそれでクラウスが容赦するわけもなく、ハビエルもまた用心深くそれを眺める。
「なにか見えたのかい」
 緊張と労りをもった声がハビエルから投げかけられ、クラウスはたいしたことではないと軽く首を振った。
 目に見えるものなど、目に見えないものに比べれば些細なものだ。
 クラウスの瞳に映るは過去の幻影。
 胸のうちに渦巻く憎しみを宿したそれは生まれながらのものではなく、契約と取引のすえ手に入れた復讐への道しるべである。
「まあ見たくはなかったけどな」
 薄青い瞳のなかでほんのりと炎が揺れる。
 浮かぶはしかし凍りつく静謐。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。