□■ 燈代のルクレツィア [7] ■□


 瞳に映るは過去の幻影。心に残るは過去の残像。つなぐはただ静かなる憎しみ。
蒼褪める頬に哀れみを覚えぬものはいない。
 クラウスはしかしそのとき、はかなく散った命をまえにただ怒りのまま握り締めた拳を震わせた。
「おまえがやったのか……」
 唇からもれる声も喉にはりついてかすれる。
 倒れ伏しまぶたを閉じた祖父の憂える青白い顔に飛び散るは、命を紡ぐ役割を失った赤黒い血痕だった。痩せた身体は血だまりに浸され、その血を浴びた獣がすぐ隣でこうべをたれていた。
 丸腰で獣に語りかけることの愚かさは、自分の左足から流れる血で、朦朧とする意識のなかでもわかっていた。
 訪ねてきた直後、祖父に覆いかぶさっていたのは大きく、黒く、湿った匂いとおじけるような冷たさをもったなにかで、それがなにかを確かめるまもなく足に激痛が走り、気がつけばこの獣が血を浴びて立っていたのだ。
 早まる鼓動が危険を訴えても、クラウスは突き刺すように声をあげた。
「おまえが、爺さんを殺したのか」
失うわけにはいかなかったのだ。意識も、祖父も、手がかりも。
 黄金の毛並みと灰色牛の角をもったその獣は、物憂いようにゆっくりと首をめぐらせると、ひたりと眼差しをクラウスにあわせてきた。
「わたしではない」
 遠のく意識のなかで声が聞こえた。穏やかな、思慮深さと慎みを漂わせた低い声だった。
 それは驚くには値しない。めったにひとのまえに姿を現さない生き物である、魔物か神獣のたぐいであることはその恐ろしく軽やかな神々しさからあきらかだった。そして森深くにひっそりとひとり住む祖父は、そうした生き物たちにひどく好かれるたちであった。クラウスにとって、どこか浮世離れしたそのひとの生き様は憧れだったのだ。
 だがいま、いくつになっても子供のように純粋に笑っていた祖父のその笑顔は事切れている。儚く、まるで最初からそこになかったかのごとく。
「あれはわたしをねらっている」
 深い悲しみを湛えた獣の瞳は、静謐に凍りつく薄い青色をしていた。しかしクラウスはつぎの瞬間、そのなかに押さえきれぬ怒りが渦巻き炎のごとく燃え立つのを見た。
「仇をとりたくばわたしとともにくるがいい。わたしは我が友の遺志によりそなただけでもあれからまもることを誓おう」
 クラウスの足から流れ出る血を獣がすすり、六本ある前足のうち左端の爪が折られクラウスに捧げられた。交じり合った視線と強い意志における取引が成立し、魔力を秘めた薄青の瞳は獣からクラウスへと譲り渡された。
 獣は血と憎しみを映した生粋の緋色の瞳をもってクラウスを主と定め、主の移った氷ついた瞳は獣の見た過去の記憶さえクラウスに伝える。
 泥濘がごとくどろりとした重い記憶がクラウスの意識を犯した。
 ただ楽しみのためだけになぶられて切り裂かれた祖父の姿と、けたたましい笑い声さえおぞましい闇をまとう生き物。
 その姿は煤を塗りこめたように黒く、瞳はやはり憎しみに燃えた赤だった。
「主の名を問うてもよいか」
 声は変わらずに穏やかな黄金の獣が言い、クラウスは引きずり込まれかけた過去より瞬いて意識をそらす。
 クラウスは獣の生粋なる緋色の瞳を見つめて己の名を告げ、ゆっくりと従者にして同士たる相手に手を伸ばした。輝く黄金の毛は触れれば柔らかく手になじみ、大きな身体はぬくもりをもってクラウスを支えた。
「俺はおまえを緋粋、と呼ぼう」
 契約を交わした凍れる瞳からは涙は流れず、ただ年若い青年の決意だけを閃かせた。


2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。