□■ 燈代のルクレツィア [8] ■□ |
記憶の残像は不確かに去来する。 魔力の込められた薄青い瞳は望めばときおり映るものの過去を過ぎらせ、望まずとも常に祖父の死に様を鮮明に呼び起こす。だがその悲哀と苦痛こそ、クラウスが旅を続ける理由である。闇色の魔物を探し出し、そして己の手で打ち倒すこと。腰に下げた剣ではなく、懐の祖父愛用の短銃こそがクラウスの武器だった。 あのときの決意は五年の月日を経ても変わらず、ただ果たされずに胸のうちにあった。 「クラウス、柘榴狼どのはいつものところかい」 ハビエルの問いかけにクラウスははたと瞬いた。わざわざ聞かずとも、その答えなどハビエルも承知しているだろう。意識が過去に引きずられるたび、やわらかな力で連れ戻すハビエルの細やかな気遣いにクラウスはいつも守られ助けられている。 「そうだな、いまごろはあんたの分をすべて飲みつくしているだろうさ」 胡乱な影のかかった視界が晴れてゆくのを清々しい気持ちで確かめながら、クラウスは大きく息をはいて知らぬうちにこわばっていた身体の緊張をとく。唇を湿らせればこころのうちを押し込めた笑みと、それをも覆い隠す軽口がついて出た。 「あいつはあんた以上の大酒飲みだからな」 「今度飲み比べをしようって約束していたのに。抜け駆けだなんてあの方もひどい」 「俺に怒るなよ」 恨めしげな顔でにらんでくるハビエルにクラウスは苦笑した。沈着さと慈愛に満ちた枢機卿と評されるハビエルは、ときたまクラウスより十は上であるその年齢に似合わぬ子供じみたことをする。聡いわりにどこか素直な気ままな所作はクラウスの祖父に通じるところがあった。 「あのねえ、クラウスに八つ当たりはしてもあの方を怒るような教会の民はいないよ。柘榴狼どのでなければ、ぼくの秘蔵の酒樽の場所を教えたりしないんだからね」 「たしかに俺には教えてくれないものな」 「きみはぼくの酒瓶を割ったからもうあげない」 「さっきのは俺のせいじゃないだろう」 ハビエルが緋粋をザクロオオカミと呼び、そこに尊敬めいた響きがあるのは、やはり獣が強い魔力をもった太古の生き物だからだ。柘榴石のように燃える瞳をもった、狼に似たその霊獣は、血を交わし名を下した主人にのみその魔力を貸し与え仕える。その強大な力ゆえにめったなことでは人間に降らず、姿を現すこともないと教会の伝承にあった。 だがいまクラウスが名づけ、契約を交わした獣は教会の地下にある酒造庫にいるはずだ。緋粋はその種族としての特異性と、己の嗜好から教会の希少な白葡萄酒に目がないのだ。そもそもザクロオオカミは人間を食べる種族ではないという。霊的な存在であるかれらが活力とするのは清められた白葡萄酒か、あるいは同族の獣の血肉だけらしい。 同族を食らうのか、と多少の嫌悪をこめてクラウスが聞いたとき、緋粋は燃え盛る瞳と穏やかな声で肯定し、同族を襲うのはザクロオオカミと人間だけだと答えた。その言葉に悪意はなく、それはどこか悲しげでさえあった。それでも突きつけられた二重の事実に言葉を返せなかったクラウスに配慮してか、緋粋が同じザクロオオカミを狩りにいくことはなく、英気は主に白葡萄酒に寄っていた。だからこそ頻繁に教会を宿に戻ってきてしまうとも言える。クラウスだけでなく、緋粋にとってもこの教会は憩いの場所なのだ。教会のすべての民がクラウスと緋粋のことを知っているわけでなかったが、秘密裏であっても受け入れてくれるさきがあればそれなりの便宜は図ってもらえる。 「この女はどうする。任せてくれるならあんたを狙う相手の名前を聞き出しておくぞ」 縛り上げクラウスが座る長椅子に寝かせてある侍女を話題にすると、ハビエルが思い出したというように膝をたたく。武器のないことを確かめ縛りつけている女を床に転がしておくほどふたりとも非道ではない。 「クラウスがぼくの言うことを聞いてくれるなら、その子のことはこちらで面倒を見るよ。こちらの不祥事だし、だいだい雇い主がだれかなんて予想がつくしねえ」 柔和な顔にほのかに笑みをはくハビエルに、クラウスもまた思い出して眉をひそめた。 「さっきの話は本気なのか」 「ぼくはあんまり冗談は得意じゃないんだ。なにしろ清廉潔白を常とする枢機卿だからね」 くすくすと声を立てるのは、おそらく刺客の雇い主が同じ枢機卿仲間であることを皮肉っているのだろう。ハビエルはその相手を知りつつクラウスに名前を告げない。教会内の争いにクラウスを巻き込まないのがハビエルのやりかただった。距離をおかれている、と感じないでもなかったが、戦う姿を見られたくないのだろうハビエルの気性を尊重すれば、それは踏み込める領域を超えている。 「だからね、きみに浚ってきてほしい女の子はこの子じゃないんだよ」 「女を浚うのか」 「そう、ぼくの花嫁をね」 告げられた言葉にクラウスの表情が一瞬固まる。 「あんた結婚するのか」 「ううん、いやするけど」 「なんだそれは。ひとに盗賊のまねごとをさせようってのに説明もなしか」 のらくらとしたはっきりしない言葉に今度はクラウスの顔が苛立ちに染まる。そうした反応のひとつひとつがハビエルを面白がらせていることを知っていても、もとが短気のクラウスはすぐにいきり立ってしまうのだ。ハビエルが困ったように首をかしげているが、もちろん本当に困っているわけではない。こういうところが食えないのだ。 「だからね、ぼくのお嫁さんを浚ってきてほしいんだ」 「でも結婚するわけじゃないんだよな」 「そうだよ。ぼくがその子と結婚するわけにはいかないと思うんだよ。だけどそういう決まりのようなものがあってね。それだとあんまりにもかわいそうだから」 「あんたみたいな意地悪いやつの嫁になるなんてだれであろうとかわいそうだよな」 低い声でぼそりと平坦に呟けば、ハビエルがひどく楽しそうに声をたてて笑った。 「ああクラウスちょっとかがんでもらえる」 すまないね、と珍しく言い添え、内緒話をしかけるハビエルを不審に思いつつ、クラウスは椅子から不安定に身をのりだす。すると清廉潔白とは言いがたい含み笑いをしてみせたハビエルに、満身の力でクラウスは勢いよく椅子に押し戻された。 なにをするつもりだ、と体勢をくずしたクラウスが声をかけようとして顔をあげる。 そのときハビエルの肩越しに、扉をあけて部屋に入ってきたばかりという様子のいつもの侍女が、めったに崩さない表情にあきれた色を浮かべているのが見えた。 そしてその後ろには驚きに目を見開いた少女の姿がある。 少女の翡翠の瞳に軽蔑が混ざるのをまざまざとクラウスは見せつけられた。 「ちょっと待て、誤解だ」 そう言いつつもそれが無駄な台詞であることにクラウスは頭を抱えた。 どう見てもクラウスのいまの格好は、ハビエルの意図した意地悪のとおり、嫌がる女を縛り上げてむりやり椅子に押し倒した男である。 睨んださきのハビエルの澄ました顔には、聖職者にふさわしい慈愛に満ちた笑みだけが浮かんでいた。 |
2003.9.28〜2004.9.28の期間で「吐息と灯り」というサイトにて連載をしていました。 |